2013年9月16日月曜日

遁走倶楽部 第1章 デアンダール岩の祝祭

遁走倶楽部

目次


1。デアンダール岩の祝祭

2。SandWitchesにて

3。町の地図

4。虚体祭

5。堂宇の殺人

6。コギト革命(cogito revolution)
7。ほとさらい



第1章 デアンダール岩の祝祭

この町について話すなら、人間の話よりも、岩についての話の方が、面白いだろう。

この港町には奇岩があって、一年に一回住民の記憶に思い出される岩があるのだ。

それは、八月の満月のときに、いつも海岸の同じ位置に、気がつくと姿を現し、月の欠けるうちに、いつとはなく姿を隠してしまう。その前後は、町人に忘却されるので、岩が存在していても、それが人々の眼に映ることはない。始めも終わりもない不思議な岩である。

その奇岩の名前は、デンデロデール岩と言ったか、又はデアンダール岩といったか。どちらが正しいのか。どうやら、前者のようであるが、まだ本当には確かめたことがない。

その奇岩が見事なので、住民は、山の方からも、町中からも集まって来て、夏の夜を海風に吹かれながら、潮の満ち引きの透明な韻律にこころを漂わせながら、ただただ岩を鑑賞するのである。中には弁当持参のものもいて、家族で来る連中などは、茣蓙を敷いて、弁当をひろげ、静かに酒を飲んでは、横になり、眠ることなく、デンデロデール岩を飽かず、魅入られたように眺めている。

この町にはSandWitchesという名前のサンドイッチ屋がある。砂の魔女。海岸のそばの、丁度デンデロデール岩を見晴らすことのできる対岸と言っていい位置に店を構えているので、そこのテラスに坐って、ぼうっとしながら、砂の魔女という名前のサンドイッチ、食べ易く切った鰊(にしん)の身にころもをつけて軽く揚げ醤油に浸たしたものにレタスを載せた奇態なサンドイッチを頬ばりながら、少し遠目にその岩を眺める人々で、この時期、この店は賑わうのだ。

町のある海岸からデアンダール岩をひとしきり眺めてから、桟橋から船に乗って目の前の島に渡り、そこからデンデロデール岩の後ろ姿を眺めるのが乙だという者がいて、それは夏の消閑にも合った趣向ということになったようで、住民の間に広まり、連絡船が定期便で出て、陸側の桟橋と中の島の桟橋の間を1時間に2本の頻度で往復をしている。この短い往復を楽しみにしている者も多いのである。

中の島から見るデアンダール岩の姿が後ろ姿なのかどうかということは、この町のひとたちの積年の議論の種であり、郷土史家も巻き込んで、それは後ろではないという否定派と、いやそれは後ろであるという肯定派と、二手に分かれて、この時期議論が喧(かまびす)しい。不思議なことは、誰もこの岩の前面についての議論をしないということであり、これがこの岩についての不思議のひとつになっている。しかし、町人はだれもそれを意識しないのであるから、不思議にもならない不思議という、誠に不思議な話になっている次第だ。

夜目には、湾の上にかかる満月が煌々と照っていて、中の島の建物群とその向こうの対岸の建物群の白が密集してみえる。それは、恰も骸骨の白い骨を彫り込んで製作したミニチュアの家々の、白ら骨の家々のようにみえる。稠密に彫られて、よく出来ているミニチュアだ。

そのような視界の周辺に、神々しきデアンダール岩が現れているさまは圧巻である。

何故わたしだけが、この岩のことを忘れずにいて、いつも覚えているのだろう。わたしは、もとは漁師であって、海に出て嵐に遭い、船が流されてこの土地に漂着したという気が頻りにする。自分は漂着した漁師だという思いを払拭することができない。わたしは、attachmentだという感覚が、折に触れ、わたしの中にふと湧いて出て、そのときに、これも不図海辺に目をやると、他の住民が忘れているのに、わたしにはデンデロデール岩の姿が目に入るのだ。いや、デアンダール岩がわたしを見ているという方がよいのかも知れない。そのときは、八月なのだろうか。わたしとこの岩との関係だけに、八月がやって来ているのだろうか。季節外れに、わたしはこの岩をみることができるのだ。だれも、このわたしの能力を知る者はいない。わたしだけの祝祭である、そのときは。

しかし、今宵は、町人とデンデロデール岩の存在を共有する喜びで、海辺へと小路を抜ける足取りも軽い。

わたしの今晩の予定は、まづSandWichesに行って、砂の魔女をテラスで食し、腹ごしらえをして、そこでしばらくぼうっとしてから、船に乗って中の島へ渡り、デアンダール岩の後ろ姿を嘆賞してから対岸に戻り、海辺沿いに歩いて岩まで行って、デンデロデール岩を拝み、帰り道すがら参詣の人ごみに混じって夜店を冷やかしてから、山の手にある住居に戻ろうというのである。

(続く)