2015年5月2日土曜日

「“女子の刀剣萌え“に騙されるな! 日本刀ブームとネトウヨの根っこは同じだ」というネット上の記事を読んで思ったこと


“女子の刀剣萌え“に騙されるな! 日本刀ブームとネトウヨの根っこは同じだ」(2015/05/02 00:09:http://woman.infoseek.co.jp/news/entertainment/litera_1989)というネット上の記事を読んで思ったこと

言葉の眼で此の記事を読むと、次のようなことがわかりました。


三島由紀夫という鍵語(キーワード)ででGoogle Alertが知らせてくれたネット新聞の記事に次のような記事がありました。


それは、日本刀が今若者間に、それも女性たちの間に、流行しているという事実と、それから同じ日本刀を擬人化した主人公たちを育てるという物語のんRPGゲームが、やはり流行していることについて、これらを比較して書かれた記事です。筆者は、恐らく男性です。

前者は、日本刀を扱うための専門の雑誌『日本刀』その他の(ムック本も含めた)書籍があり、後者は、『刀剣乱舞』や「艦これ」というネットゲームがあるのだという。

この二つの流行は浅い歴史認識と薄っぺらな自意識をベースにし」ており、従って「ネトウヨ」(ネット上の右翼)の群れを動かす「原動力」になっている、更に従い現下の安倍政権の政策の立案と実施を、右翼の方向に、即ち戦前と同じ戦争を使嗾する方向に、勢いづかせているという論旨です。

この最後の結論である「浅い歴史認識と薄っぺらな自意識をベースにした」流行という言葉は、実は自分自身のことを言っている。

この記述者の言葉の裏にあり、その下にある無意識の意識を読むと、この種の人間の次の特徴がよくわかります。恐らく、この種の主張(とはとても言い難い主張)をする人間は、次の特徴を持つ。

1.無知を誇っている
自分の頭で考えることができずに、目の前にある流行を否定することで、自分の正しさを証明したと思い、またそれで証明になると思っている程に、人間を他人を馬鹿にしているという自分のこころのあり方に気づいていない。

2。質ではなく、量で考える
量の多いものがいつも正しいと考えている。つまり、考えるという行為をしたことがないことを、この論拠で自ずから他人と、従い社会に、進んで暴露していることを知らないという無知の中にいるということを、恥ずることなく、知らないほどに厚顔無恥であり、厚顔無知である。

3。美に対する鈍感
日本刀は率直に、わたしは美しいと思う。

しかし、この論者と(もしこれが論ずるという行為だと仮定してという日本語の非現実話法で書いているのですが)、この論者が無意識に前提にして書いて伝える相手として伝えようと思っている読者は、日本刀という対象を正面からみることができないので、これ以外の対象に美が備わっているものがあっても、それを美しいと思っても、そのような自分を否定することになりませう。美しさに感動するこころが欠落している。無感動の人間でありたいとこの記事の書き手は思っている。それが、この書き手の思っている理想の人間像ということになる。これは生きた人間であろうか?

4。論理的な思考の徹底的な欠落
上記1から3のことで、明白なように、これらのことを言葉を変えて言えば、論理的な思考の徹底的な欠落と、一言まとめることができる。

これらのことの一番の原因は、大東亜戦争敗北後にこそ日本の神話を学校の授業で教えることができた筈であるのに、それを国と政治家と官僚と子供達の親が怠ったことが原因であると、わたしは思っている。

これが団塊の世代の親であり、その親のもとで育った団塊の世代であるのでしょう。

もしそれをしておけば、カルトの擬似宗教も跳梁跋扈することはなかったし、従いオウム真理教も生まれず、皇居に向かってホテルの一室から砲弾を発射させようという計画も生まれなかったであろうし、擬似神話の映画やアニメや漫画も生まれなかったでありましょう。

つまり、この日本刀の流行も、日本刀が擬人化されたRPGも、人間が普遍的にこころの底に求めている神話の復活と、そのような神話が日常生きていることの実現への強い欲求なのです。何故ならば、どの民族の神話にも、神々の生き方、その運命の変転は、この世を生きるわたしたち人間の生き方と運命への対処の仕方の模範となり規範となって、そこに時間を超えて、歴史(文字通りに)「以前に」存在しているからです。

こうして神話のことを考えて来てまた思うのは、恐らく哲学が流行するのであるとしたら、その流行の原因も全く同じだろうということです。

神話の世界に生きる人間は、幸せです。何故なら、既に生き方の規範があるので、余計なことで苦しむことがないから。哲学の世界に生きる人間は、幸せです。何故なら、既に思考論理の単純な規範があるので、本当に本質的なことだけを自分の人生において考え、苦しめばいいから。

しかし、前者の人間は少なく、後者の人間も少ない。

それは何故か?そして、どうしたら、これがもし問題だとして、この問題を解決できるのか?

という問いに対する答えを、このネットの記事(ネトウヨに対して、ネトサヨと自称しているのだろうか?)は教えてくれるほどに裨益するところが大きいものがあります。

(このように書いてきても、この記事の書き手は、自分がどこか無責任な高みの見物をしているという安楽な生活に全く気づいていないし、従い社会的な責任、他人への自分の言葉についての影響ややはりその言葉を発することについての責任も感じていることが更々ないし、否定的に度し難い
人間であることが、よく解る。)

何に裨益するのか?

最初の数行を読んだだけで、その記事の質(quality)が直ぐに判るという益を、ネトサヨの記事を見分ける収穫を、読者は手にしたことについての裨益である。

即ち、その記事は、すべて伝聞記事であって、伝聞の根拠を明示することがないので、文章が揣摩臆測から逃れることができないことになっているにも拘らず、そのことに厚顔無恥であり、厚顔無知であるということである。

この筆者は、自省(reflection)ということがないから論理的に考えることができない人間であるので、自分自身をネトサヨと自称することなく、自分の不快だと思った社会的現象や他者に、ネトウヨというレッテルを社会的現象に貼付するわけであるが、このことによって、自分のどういう人生を実現したいと思っているのだろうか?

それは、やはり他人の人生を貶め、不幸を喜ぶという悪意と、社会と人間に対する憎悪から発していると考える以外にはないと思われる。

自分よりも優れた人間を妬み、貶めるという卑しいこころであり、その恥ずかしいこころを実は内心恥じているので、それを隠蔽するために、社会的現象と(自分にとって)不快な他者を、もっともらしい(快不快原理ーこれが原理ならばーに基づく)擬似論理を捏造して、その偽善の見かけを立派なものに見かけ、上記の偽装・艤装・擬装を施し、それらを、マスメディアを使って他者の感情に訴えて(量によって)扇動し、自己の主張の真正の正しさによるのではなく、みながそうだから正しいということを理由にして、否定しようという偽善である。

マスメディアに書けば、そうしてそのように書けば、社会的に認められると勘違いをし、社会的な地位とはそうやって得られるものだと錯覚するとは、その人間は一体どのような人間であろうか。

昔のひとは、親の顔が見たいという痛烈な寸言を大切にしていた。