2012年11月28日水曜日

時間泥棒とは何か


時間泥棒とは何か

何故か、このごろミヒャエル・エンデのモモという作品に出てくる時間泥棒という言葉に惹かれるものを覚えるので、時間泥棒について論じたい。また、そのような盗人からどのようにわが身を護るかも考えたい。

例によって例の如く、ソクラテスから教わった形式に則り、次の問いを立てる。

時間泥棒とは何か?

この問いに答えるための問いは、次のふたつである。

1.時間とは何か?
2.泥棒とは何か?

(時間泥棒は、英語でtime thief (-thievs)、ドイツ語でZeit-Dieb (-Diebin)というとして、考えを進める。)

1.時間の概念と定義
わたしは、次のように時間という概念を定義する。時間という言葉がある以上、その概念は既にして存在し、従い、定義も可能である。

【時間の定義】
時間とは、一次元で川のように流れる物事の動きの繋がりである。

〔補足説明〕
認識の観点からは、この流れ、この繋がりは、非可逆的な因果の関係の連鎖と考えることができる。(存在の観点から、時間をどのように定義するのか、もしご存じの方がいればお教え下さい。)あるいは、また人間の意志との関係では、目的と手段の、これも非可逆的な関係の連鎖と考えることができる。時間は、あるひとつの次元の中で、矢印(→)で表すことができる。

〔補足説明2〕
Merrian Webers Onlineの時間の定義は、次のようなものである。全部で14の定義があるが、そのうちの最初の3つを引用し、掲げる。

1a : the measured or measurable period during which an action, process, or condition exists or continues : duration
b : a nonspatial continuum that is measured in terms of events which succeed one another from past through present to future
c : leisure <time for reading>
2
: the point or period when something occurs : occasion
3
a : an appointed, fixed, or customary moment or hour for something to happen, begin, or end <arrived ahead of time>
b : an opportune or suitable moment <decided it was time to retire> —often used in the phrase about time <about time for a change>

これらの定義を読んで短くまとめると、時間とは、

そこで物事の生起する、計測された非空間的な連続体、即ちそのような瞬間または期間である。

ということになる。

2.泥棒の概念と定義
Merrian Webster Onlineの力を借りる。

Definition of THIEF
one that steals especially stealthily or secretly; also : one who commits theft or larceny

〔訳〕
盗むひと。特に、誰にも知られることなくこっそりと、又は秘密裏に盗むひと。また更に、盗みまたは窃盗を専らの業となす者。

どうも密かに他人の財物を盗む者をいうようである。そうすると、泥棒の定義は、次のようになる。

【泥棒の定義】
泥棒とは、他人の財物を盗む者をいう。特に誰にも知られることなくこっそりと、又は秘密裏に盗む者、また更に、盗みまたは窃盗を専らの業となす者である。

従い、時間泥棒の定義は、

【時間泥棒の定義】
時間泥棒とは、他人の時間(という財物、財産)を盗む者である。特に誰にも知られることなくこっそりと、又は秘密裏に盗む者、また更に、そのような盗みまたは窃盗を専らの業となす者である。

〔補足説明〕
盗むという行為は、違法の行為である。しかし、誰が違法だというのであろうか。やはり、その法律の体系をつくった者、即ちその次元の立法者、更に即ち、その世界の最高権力者である。さて、その世界を何と呼ぶのか。それによって、盗みの罪状も変わって来るだろう。

(さてしかし、立法というならば、その大前提は、所有ということである。この個人が何かを所有しているという考えは正しいのであろうか。わたしは、全く反対に物事を考えて来た人間であるので、このような根本的な問いを立てることができる。

即ち、時間は、またそのひとの時間があるとして、そのようなそのひとの時間は、果たして、そのひとのもの、そのひとの所有に帰するもの、所有できるものなのであろうか。というのが、わたしの問いである。否、というのがわたしの回答未然の回答である。)

さて、このような人間から身を護る方法を考えてみよう。あるいは、その前に、そのような人間の特徴を挙げ、自分自身に注意を喚起することがまづ大事かも知れない。

と、このように考えて来て、しかし、そこへ行く前に、もうひとつ別の観点から時間泥棒を考えてみようと思った。

それは、コミュニケーション(意志疎通)という観点です。

この観点から、又はこのコンテクストに於いて、時間泥棒を論じて、それから、時間泥棒の人間の特徴を挙げ(あるいは、時間泥棒の人間類型分類)、時間泥棒から身を護る護身術の話に移りたい。

(しかし、時間泥棒は人間だけなのであろうか。人間が時間泥棒ならば、やはり、人間の集合である社会も時間泥棒足りえるだろう。

更に考えると、時間泥棒は人間ばかりではない。電話は明らかに時間泥棒だ。わたしは電話が嫌いである。そうすると、電子メール、スマートフォンなども時間泥棒であるということになりそうである。やはり、どうもどこか根底でコミュニケーションの問題にも大いに関係している。

更にしかし、考えてみれば、人間個人の時間も確かにあるが、社会の時間もあるのである。即ち、家族の時間、会社の時間、国家の時間といったように。時間がひとつしかないと考えると直ぐに思考の限界が来る。時間は複数並存していると考えることが大事だ。即ち、実は、眼には見えねども、複数多数の次元が眼前しているという事実に基づいて考えたい。一個の次元はひとつの時間を含む。

今地球上で一元的な形で様々な国家と民族の時間を支配しているのは、白人種、ヨーロッパ人の制定したグレゴーリウス暦である。しかし、勿論この暦だけがあるわけではない。各文明において、それぞれの暦、カレンダーがある。文明同士の軋轢は、異なる時間の惹起する軋轢だということができる。日本の場合ならば、太陰暦と太陽暦(グレゴーリウス暦)の軋轢。

こうして時間を中心に、時間という観点から考えて来ると、ある文明は他の文明に対して、もし他の文明圏を支配しようとしたら、そのときに、その文明は、時間泥棒になり得るということになる。しかし、ここまで話を大きくすると、この場合の泥棒は譬喩(ひゆ)であり、隠喩になるだろう。

しかし、わたしはあくまでも泥棒という本来の意味で使いたい。話の範囲もその限り、即ち譬えで考えるのではなく、譬喩にならない範囲で、その言葉の意味の限界の内側で、盗人という人に限って、いつもそこを離れることなく、実利的に考えを進めたいと思う。)

(この稿続く)


2012年11月25日日曜日

Dan Kennedyの文章を求めて読むのは何故か -智慧とは何かー


Dan Kennedyの文章を求めて読むのは何故か -智慧とは何かー

何故Dan Kennedyのニュースレターを読むことを楽しみにしているのかということについて考えると以下のようになった。

そのひとの言葉に智慧があるから。

何故ならば、

読者の日常的な生活との関係で、経験が体系化され(知識)、具体的な解決方法と手順(詳細な方法のこと)が示され(方法)、そして具体的な成功例と失敗例が示されている(例)、即ち、

体系と方法と例が示されている

それ故に、

納得する、そうして自分にも同じ成果が生まれ、または生まれそうに思う。

それ故に、

また読みたいと思う。

その人の言葉に智慧があるということは、以上のことだということになったという結論です。

それにもうひとつ、そのひとのスタイル(文体)がある。そのひとが自分の頭で物事を考え、自分の言葉で話しをしているということ。これが一番大切なことで、そのひとの言葉の魅力の源泉だと思う。

今、愛用するWebster Onlineをひくと、次のようなwisdom(智慧)の定義がある。

Definition of WISDOM

1
a : accumulated philosophic or scientific learning : knowledge
b : ability to discern inner qualities and relationships : insight
c : good sense : judgment
d : generally accepted belief <challenges what has become accepted wisdom among many historians — Robert Darnton>
2
: a wise attitude, belief, or course of action
3
: the teachings of the ancient wise men

智慧 (wisdom) という概念を敢えて分解すると、

1.知識 (knowledge)
2.洞察 (insight)
3.判断 (judgement)
4.信念(一般性のある)

ということになるようだ。

どれも納得。

上の2の洞察ということを考えに入れると、わたしの智慧の定義は、次のように、更に書き込むことができる。

読者の日常的な生活との関係で、経験が体系化され(知識)、問題の具体的な解決方法と手順(詳細な解決方法のこと)が示され(方法)、そして具体的な成功例と失敗例が示されている(例)、即ち、

問題解決のための体系と方法と例が示されている。

この場合、こうして考えてくると、この体系という言葉には、仮説という言葉も含まれているということが解る。

つまり、マーケティングは、人間心理に関する哲学であり、また同時にその科学だということである。

このようなことのできる人の持つ言葉の独自性の魅力は、勿論マーケティングの分野だけに留まらない。

哲学も文学(散文、詩文)も同じだと思う。

Dan Kennedyのウエッブサイトです。

http://www.dankennedy.com

2012年11月24日土曜日

わたしの定義


わたしの定義

世界はわたしの表象である。世界はわたしの意志である。

世界はわたしの鏡である。わたしは世界の鏡である。

破鏡せよ! Break your mirror!自分自身を首にせよ! Fire yourself!

結局、わたしの定義、わたしとは何かという問いに対する答えは、

わたしは、マーケターである。

わたしは、起業家である。

わたしは、鏡である。破鏡者である。

わたしは、翻訳者である。Translator, Tranfserrer, Transformerである。

わたしは、変形者である。物事を変形させる者である。

2012年11月23日金曜日

Ironieについて


Ironieについて

ドイツ語でIronie、イロニー、英語でirony、アイロニーというこの語に、日本語で一語で対応する言葉は、勿論ない。それは、翻訳上の要請によっても、当然そうである。

やはり、カタカナ語でイロニーというようにこの言葉を使うことにしよう。

わたしがトーマス•マンから教わった重要なことのひとつが、このイロニーであった。

今手元にあるSachworterbuch der Literatur (Gero von Wilpert編纂)をみると、色々なイロニーの意味について説明がしてあり、最後にトーマス•マンのイロニーについて述べていて、それは、

精神が、今ここにこうしているということ(Dasein)の悲劇から距離を置いて自分自身を保持すること

と記述している。

これは、全くその通りだと思う。今ここにこうしていること(Dasein)の悲劇の悲劇とは一体なにかというと、それは人間は、与えられた空間の中と時間の中にいると必ず矛盾の中で生き、矛盾そのものを生きることになることを言っている。

(トーマス•マンは、この現実、この事実をTonio Kroegerの中で、Komik und Elend、滑稽と悲惨と呼んでいる。)

何故、わたしがこのことを知っているのかは解らないが、今ここに、この一次元の流れる時間の中にいると、完全な物事の姿が散乱し、丁度鏡が壊れて粉々に砕け散っているように物事が散乱して見えるのだ。

わたしが社会に出て、わたしという人間を理解するときの難しさが、このイロニーだったのだと、今この年齢になって、しみじみと思う。

随分と自分勝手な人間に見えた事であろう。また、今も変わらず、そのような人間に見えることであろう。

この今ここにあること (Dasein)の矛盾を矛盾でなくするために、ひとは命令し服従するということは、生、生きていることの一面であることは間違いがない。そこに道徳も生まれ、倫理も生まれ、社会も生まれ、人間的な感情も生まれる。

しかし、他方、このわたしの無道徳な感覚はどうしようもないものがある。A-moral.

Aなのだ。無関係なのだ。道徳とは無関係。そもそも、関係がないのだ。

(しかし、アモラルな人間とは、一番美味しいものを、一番最後までとっておき、最後に食べる人間でもあるのだ。それが、普通の人間とは違う。流行を追うことがない。不易である。)

20代に読み耽ったHanser版のトーマス•マン全集にあったマンの評論あるいはエッセイには、

Geist ist Ironie.

と、そう書いてあったことを思い出す。

これは、

Ironie ist Geist.

とひっくり返すこともできる。

イロニーは、この浮き世に散乱して、互いに無関係に見える物事を結びつけ、接続し、関係を発見する精神の活発な働きである。

この言葉の語源は、同じ辞書によれば、ギリシャ語のeironeiaに由来し、ドイツ語でいうならば、Verstellungという意味である。

このVerstellungという語が、Ironieの一番よい説明であると思う。

Verstellen、フェアシュテレンとは、づらすこと、変形させること、別のものに置き換えること、従い、譬喩(ひゆ)すること、何かに譬えること,tranformすることである。

これが、Ironieであり、Ironieの能力、即ち、精神の働きである。

この精神の力は、わたしには何ものにも換え難い、掛け替えの無い、人間の能力だと思われる。

この能力によって、ひとは、一行の文を、それぞれの個別言語において、発し、歌い、また書くのである。

わたしは、よく何かの折りに、わたしは偽物、偽者ではないかという思いに捕われることがある。


2012年11月21日水曜日

孤独の時間について


わたしは老子が好きだが、老子にも孤独な時間があったのではないかと思うし、思ってみて、思うことができる。老子の道徳経を読むと、その開巻第1章にその影は濃厚である。そうして、その第1章に老子の思考と宇宙のエッセンス(本質)が書かれている。
イエスキリストというひとも仄聞するところ、求めて一人で荒野に出て行き、孤独の時間を持った。魔物と戦ったのだという。
釈迦も、悟りを開くために、求めて人を断ち、孤独の時間を持った。やはり、魔物と戦った。
どんなひとにも、この時間、孤独の時間、本当は絶対的に孤独の時間といいたい時間があるのだ。今なければ、いづれ訪れることだろう。
人生の積分値は変わらないという考えを聞いたことがある。
あなたにも、必ず孤独の時間が訪れるものだし、あなた自身が自ら必要とする、そのような契機がやって来ることだろう。
わたしの場合には、10代の終わりから20代全般に掛けて、この時間を徹底的に経験した。求めて味わった。
毎日が暗闇で、光一筋射さなかった。顔ではいつも笑っていたが。
すべてを疑って、全くの白紙から自分自身と人間と社会と宇宙と言語の本質を考え、極めることが、わたしの決心と探究のすべてだった。道徳も倫理も、すべての規則をも、自分で構築しようとした。全てを捨てていたのだ。
毎日生きなければならず、生きていれば歩まねばならない。毎日毎日一歩踏み出すその一歩に全く自信がなく不安で不安でたまらなかった。どっちの方角に向かっているのか全く解らなかった。見当すらつかなかった。光りが全く射さぬ暗闇であった。
今、毎日毎日苦しんだことだけは覚えているが、苦しみそのものの実感はもう忘れてしまった。日本を離れて、何故こんなことをしなければならないのか、その苦しみの余り、湯船につかって、涙したことがある。
この孤独の時間の苦しみを、誰にも伝えることができない。
今は、もう苦しむことはない。答えが出たのだ。
一条の光が射したので日本に帰って来たが、そこから、まだ道は遠かった。
しかし、今こうして書く事ができているのである。
生きているということだ。

2012年11月19日月曜日

わたしは、何を証明するために生きているのか?


これは前回の記事、北端さんの本を読んでの続きである。

わたしは北端さんの分類によれば、本田宗一郎型の人間です。

この型(タイプ)の人間は、自分のヴィジョンの正しさを証明するために生きる。

さて、わたしは、何を証明するために生きているのか?

という問いに答えたい。

わたしは何を証明しようとして来たのか?

答え:

1.自分自身の純粋性を。別離によって。
2.自分の考え、至った言語観、言語論の正しさを。その本質と応用を。
3.わたしの観た言語のヴィジョンの正しさを。宇宙の生まれるその一瞬のヴィジョンの正しさを。