2012年12月30日日曜日

季刊誌「言葉の眼」を創刊しました。


わたしの全く純然たる文学の個人誌を創刊しました。

季刊誌「言葉の眼」です。お読み下さると、嬉しく存じます。

次のURLアドレスでダウンロードを:http://upub.jp/books/8729

2012年12月20日木曜日

時間泥棒とは何か 6 -自己発見ワークシート―


時間泥棒とは何か 6 -自己発見ワークシート―

前回に続き、今回は、時間泥棒撃退法を書こうと考えてみると、それを書くには、これからお話をする順序がよいのではないかと考えました。

一般的な時間泥棒撃退法などというものはなかなかなく、やはり、わたしならわたし、あなたならあなたが、自分で考えて、工夫するより他ないからです。

何を言いたいか。

自分の分を守る人でないと、時間泥棒に対抗できないという結論なのです。

自分の分を守るとは、久しく日本人が忘れていた美徳です。しかし、この美徳と言葉の意味をもう一度思い出して欲しい。

自分の分を守るとは、自分にある制限を課すること、自分の領分を決める事、そうして、その外に出ないことです。僭越ではない。

この分を知る事がなければ、時間泥棒を撃退することができません。自分の領分を知らないのですから。

さて、では、自分の分を知るためにはどうしたらよいでしょうか。

やはり、あなたの「わたし」を知ることがなければ、その分を知ることもないでしょう。

と、このように考えて来たわけです。

そこで、冒頭述べましたように、わたしのお話をする順序は次のものです。

1。自己を発見する。あるいは再認識する。(自己発見ワークシート)

2。あなたの「わたし」を定義する。(わたしを定義するワークシート)

3。起業のテーマを発見する。あなたが真にしたいことを見つける。(起業テーマを発見するワークシート)

4。あなたの時間泥棒撃退法を考える。(時間泥棒撃退法ワークシート)

1から3に、それぞれワークシートを用意しました。

4については、色々なひとの時間泥棒撃退法を例にお話をして、共通項を見いだし、あなた独自の撃退法をつくってもらいたいと思っています。もし作成できれば、ワークシートを作ってみようと思います。

そこで、今日はその1ということで、自己発見ワークシートをお渡しします。次のURLアドレスへ行って、ダウンロードなさって下さい。

http://www.scribd.com/doc/99091682/自己発見ワークシート-v1 

このワークシートは単純な3部立ての構成です。一枚のA4あるいはA3サイズの白紙の紙を想像して下さい。それを単純に3つに、縦に線を引いて分けるのです。

単純な構成ですが、深い哲理に基礎を置いて作られておりますので、あなた次第でいかようにでも千変万化します。このシートは、意志のある生き物だと思って下さい。その、全くの白紙に、あなたの姿と思いを書いてもらいたい。

わたしは、このシートを使って、何千回何万回とわたし自身を洗い出しました。

そうして知っているわたしは、何故か善玉ではなく、悪玉に強く惹かれるのです。

例えば、バットマン。バットマンは正義の味方のようですが、しかし、他面暗い世界を抱えています。そのような人間に、わたしは非常に惹かれます。

また、子供のアニメにアンパンマンというキャラクターがいますが、わたしはこの正義の味方には全然興味が湧かない。強く惹かれるのは、バイキンマンです。

この悪役は、アニメを見ていても、相当悪逆非道のこころを持っている悪者、悪漢ですが、わたしは惹かれます。

一言でいうと、暗闇の世界にいる人間達に惹かれるということなのでしょう。

Sleuth、スルース、探偵という映画があります。これは、イタリア人の若い美男の理容師の間男(マイケル•ケイン)と、その理容師に妻を寝取られた老齢の探偵小説作家(ローレンス•オリヴィエ)のふたりだけの劇です。

前半と後半に分かれていますが、前半で作家が理容師に復讐をします。後半では今度は理容師が作家に復讐をし、最後に作家が理容師を鉄砲で殺すところで幕が降ります。

こういうと惨憺たる劇のようですが、そこは脚本が素晴らしいし、舞台装置もまた優れていて、非常に楽しめる大人の娯楽劇となっています。

推理小説仕立てがわたしの好みにあっていることは間違いありませんが、しかし、他方登場人物達の癖のある、一筋縄ではいかない性格と、裏表、陰日向のある台詞(せりふ)の連続と、その人間関係の優位劣位の絶えざる変転に惹かれるのだと思います。絶えず変化するふたりの関係。安定した劇では全然ないのです。

このシートには完成ということがありません。仏教のお経に、維摩経でしたか、未完成の完成という完成を褒め称えておりますが、このシートも同様に未完成の完成を褒め称えるシートです。

あるところで、一区切り付いたら、わたくしに送って下さっても結構です。次のURLアドレスにお送り下されば、わたしのコメントを付して、お返し致します。このコメントは、あなたがよりよく、またより深くご自分を知る目的のために書かれるものです。

eiya.iwata@gmail.com

そうして、自己をよりよく、善も悪もひっくるめて知る事ができたら、次は、あなたの「わたくし」を定義するのです。

(この稿続く)

2012年12月17日月曜日

時間泥棒とは何か 5 -人生の目的の実現と経済的な自立について―


時間泥棒とは何か 5 -人生の目的の実現と経済的な自立について―


人間には、意志があります。

意志があって、こうしたいとか、そうはしたくないとか、色々と思い、また考える。このような状態にあるとき、不思議なことに人間はいつの間にか、人生の目的を持っています。

それは、何故でしょうか。意志は盲目的で、そもそも目的を欠いているから、意志は目的を発明するのだというのが、ショーペンハウアーの説明です。しかし、今はその方向には敢えて行かず、目的に沿って考えてみることにします。

この稿の目的は、あなたの意志が目的を持った場合に、どのようにその目的を実現するかということ(計画)と、その実行を行うと起きる周囲との軋轢を、目的実現という観点から、どのように解決を図るかということ(手段)について考えることです。

このことを考えるときに、わたしはいつもドイツの文豪ゲーテの書いた長編小説「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」を思い出します。そうして、そこに書かれていたことを糧として、考えを先に進めます。

この小説はヴィルヘルム・マイスターという演劇を志す青年が修業の旅をして、人間として成長する話です。この主人公自身であったか、あるいはその他の登場人物の一人が主人公に語ったのであるか、あるいは、作者であるゲーテが地の文に顔を出して語ったのであったか、次のような言葉がありました。

主人公の願いが、何の障害も無く、思った通りに実現する話の筋をストーリーというのだ。これに対して、主人公の願いが、いつも障害に会い、いつもうまく行かない話しの筋をドラマというのだ。

という、話の筋書きに関する言葉です。

後年、このふたつのことを合わせて一言、シナリオというのだと知りました。成る程、シナリオとは、そのひとにとっての最上最善の場合と、そのひとにとっての最悪の場合のふたつを事前に計画に入れて、話しの筋を進めることです。

わたしは16歳の5月に人生の計画を立てました。それが何日であったかまで、日記が残っていますので特定することができます。当日のページに、この少年は、左から右に矢線をひき、次のように時間を按分したのです。

1.16歳から30歳:理論を学ぶ。

2.31歳から50歳:実践する。

3.51歳から87歳:白紙です。

4。87歳:死亡する。

この場合、一番左にある実現すべき項目は、すべて文学と言葉の勉強に関係することでした。

この日記に文字にはなっておりませんが、わたしが宇宙がどのように出来ているのかを知りたい、そうしようと決心したのは、大体小学校の3年生の頃だと思います。それから、言語とは何かという問いに答えることを決めたのも、同じ時機でした。何故ならば、人間同士の誤解の根底にあるのは、幼い頭で何度考えてみても、言葉だという答えに立ち戻ることを繰り返したからです。これらのこころは、そのページの裏に隠れて、見えないインクで書いてあったというわけです。(実際に、振り返ってみれば、上の3つの時期の通りに、わたしの人生の節目がやって来て、少年の書いた設計図通りに、計画を実現していたのです。)

これらの問いに対する答えが出たのは、39歳のときでした。それをわたしは一言、言語は機能だといっております。機能とは、function、関数ということです。宇宙という宇宙は、このように出来ております。この話は、老子のところで既に触れましたが、また別のときに、機会があれば話をしたいと思います。(時間泥棒とは何か 2 ーコミュニケーションとは何かー:http://word-eyes.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html

さて、わたしは、16歳の少年のひいた設計図でいえば、今3番目の時期を生きていることになります。今のわたしの人生は全くの白紙の状態の人生です。何をやっても新しい。

この間、多くの時間泥棒に逢ってきました。好むと好まざるとにかかわらず、時間泥棒がやって来るのです。特に、若い、世に出たときには、尚更、本当にどの人この人が時間泥棒でした。それは、何故、自分自身で気づかずに、ひとは時間泥棒になるのか。わたしの考えでは、次のふたつのことに原因があります。人生の先輩である筈の人間たちが、

1.計画を立てない。

2.体系的に考えない。

即ち、これらのことを、俗に言う反面教師として逆のことをすれば、あなたは他のひとに対して時間泥棒ではなくなります。

1.計画を立てる。

2.体系的に考える。(考えるとは体系的に考えることですから、実は「体系的に」とは贅語です。)

勿論、わたしの出逢った全てのひとたちが時間泥棒であったのではありません。こう考えて来ると、やはり、学ぶこころは大切だと思います。それから、謙虚であること。

こうして来ると、やはり、古代から人類が唱えてきた徳目、即ち人格を陶冶してその人に備わる徳目を備えた人間になるという修業が大切になるのでしょう。学ぶこころがあれば、どんな経験も無駄ではなくなります。

しかし、他方、わたしはお説教や、知ったような寸言や、一時凌ぎの慰めの言葉やその他諸々の通俗的な道徳に関する理解と表現を嫌う人間であることを知っています。

(わたしのこのような考えでは、その人間の幸せは、もしそのひとが指導者、統率者、統帥者でないならば、そのように体系的に思考し、組織、即ち社会の計画を立てて実行する、徳を備えたそのような支配者に支配されることが、その人間の幸せだと思っています。しかし、現実はいつも安易な期待を裏切るわけですが。)

このように考えると、既に今まで考察して来たように、人は孤独を抱えて生活しなければならない。このとき、計画とは、その人の人生の計画を立てることになります。

あなたの人生の計画の目的と、あなたが帰属する社会の計画の目的とが一致することがあれば、それは幸せなことです。しかし、多くの場合は、そうではない。さて、その場合には、一体どうするのか?という問いに答えるために、様々なノウハウが世上には、調べてみますと、あります。

この場合、あなたの意志に由来した人生の目的が、あなたの帰属する社会に合致していない、あるいは乖離が甚だしいときには、あなたが給与生活者であれば、あなたはその社会を離れ、より実現性の高いと考える社会を求めて離職し、転職することになるでしょう。

しかし、わたしが考えるのは、奉職すると同時並行で、起業をすることを考え、経済的独立を獲得するその準備をしてはどうかということなのです。もう今は時代がすっかり変わってしまい、企業はその人の一生を保証するという考えそのものが、大企業においても、無くなりました。

さて、どうやってものを考えて、何をどうしたらよいのだろうと、ここに至ったときに、経済的な独立のためのワークシートを次回掲げますので、それを使って、あなたの人生の目的を発見し、計画を立て、実行してもらいたいと思います。絶えず見直し、新しいものにアップデートしながら。

今、この原稿を書いている時点で、わたしのこの言葉の眼の読者の年齢は、若者から中高年の年配者まで、老若男女を漠然と考えております。実は、どのような方が読者なのか皆目わからない。今日より早い日はない、という言葉は、わたしが10代のときに、ある先生から教わった言葉です。この言葉は折に触れ、わたしの胸裏に去来したものです。

今日より早い日はありませんから、そのような起業の準備をなさることをお奨めします。

さて、このように書いて来て、ここから先は次の2通りに道筋があります。

1。具体的な時間泥棒撃退法を論じる。

2。起業のためのテーマの探し方をお伝えする。

まづ上の1を考えてから、2に移りたいと思います。とはいへ、わたしのことですから、逸脱をすることがあるかも知れませんので、その場合は赦されよかし。

(この稿続く)

2012年12月9日日曜日

時間泥棒とは何か4 -隠者についてー


時間泥棒とは何か4 -隠者についてー

時間泥棒について考えているわけですが、逆に全く正反対に、時間泥棒ではない人間像を思い描いてみたら、それはどのような人間かと思って、直ぐ思ったのが、隠者でした。

隠者は、ひとの時間を無闇に、無体に奪うことはない。何故なら、ひととの交流が少なく、ひとりで住んでいるからです。

こうしてみると、時間泥棒は、社会の中で発生するものらしい。

しかし、その先へ行く前に、例によってWebster Onlineにお伺いを立て、隠者の定義を致しましょう。

Definition of HERMIT

one that retires from society and lives in solitude especially for religious reasons

 【隠者の定義】

隠者とは、社会から引退し、そして、特に宗教的な様々な理由から孤独の中に生きる者である。

二つ目の意味として、香辛料の効いた糖蜜のクッキーというのが面白い。どこかで、糖蜜は、英語の世界では、そうして香辛料の効いているということが、隠者に通っているのだろうか。

クッキーというお菓子は、その家庭に客を招じ入れて、受け容れたよという印に客に出すもの。家庭の奥深くにまで入ることを許したのですよということを客に伝えるお菓子。(だからパソコンのそれぞれの中にクッキーもあるということ。この場合のクッキーは譬喩。)

そのような性格のお菓子が、隠者と同義だとは面白い。いつも、言葉の意味は、両極端で相通じています。

あるいは、そのクッキーは余りに質素で、あるいは香辛料の故に味が一体に奇妙で、隠者しか食べない食べ物のようだと理解されるからでしょうか。

こうしてみると、時間泥棒ではないひとは、次のような性格を持っている。

1.社会と没交渉である。あるいは、社会の利益とは直接には無関係である。

2.孤独の中に生きるものである。

このように考えて来て、わたしはダクセンフランツ、Dachsenfranzという人間を思い出しました。

このひとの写真は、次のURLアドレスにあります。

http://de.wikipedia.org/wiki/Dachsenfranz

19世紀の末20世紀の初めのイタリアの独立戦争に出征して、何かの諍いから上官を殺したことから軍隊から逃亡し、ドイツ、オーストリア、イタリアの国境地帯を逃げて生活をした後、ドイツのKraichgau、クライヒガウという土地に50年ほど腰を落ち着け、その山や森に棲んで、野山や森の獣をとり、それらの肉や皮や獣脂を、町へ出てきて市場で必要なものと交換して(お金を貰ってもしようがないだろう)生活をした男です。

普段は森の中に住み、町に市が立つとやって来て、獲物を何かと交換して、また森へ帰って行く。

ダクセンフランツは、決して町の人々の時間泥棒ではありません。日本に二日市、四日市、五日市があるように、そこに住むひとたちの習俗にしたがって定例的に開かれる市にやって来て、交換という行為をする。

交換という行為は、お金をもらうのではなく、お金とは無関係に、お互いが等価で交換をして、満足をするという行為であったでしょう。ダクセンフランツから肉や皮や獣脂を貰った人間は、決してダクセンフランツを時間泥棒とは考えなかったでしょう。

その理由を挙げてみると、時間泥棒ではない人間とは、

1.普段は孤独に生きている

2.社会的な規則を守る

3.等価交換をして、お互いに満足をもたらす

ということになるでしょう。

しかし、一寸考えてみても、1と2を同時に(同時とは何か?です)体現することは、難しいことです。これが、多分、われわれ人間のほとんどの悩みの原因なのかも知れません。

【隠者の定義】

隠者とは、社会から引退し、そして、特に宗教的な様々な理由から孤独の中に生きる者である。

ダクセンフランツの場合、彼が一種の隠者になった原因は宗教的な理由ではなかったわけですが、それでもそのような生活を強いられることになり、多分ある時からはそのような生き方を積極的に選択したのではないかと思います。

そうしてまた3についても、これはほとんど全てのわたしたちの不平不満の原因ではないでしょうか。

あなたが何かを提供した時間が無駄になったと感じたら、その相手は時間泥棒です。即ち、何か等価な物事を、あなたに返さない人間だからです。

社会的な規則(人間に関する限り、規則はみな社会的です)に従えば、この不満と後悔はない。何故ならば、すべての規則は社会的な公正と公平を前提に、あるいはその実現を目的としてつくられていることを、わたしたちは皆知っているからです。

さて、何故わたしはダクセンフランツのことを知っていたのか。

実は、わたしがドイツへ行くと必ず訪ねるドイツ人の友人がおります。その村に料理も酒も、勿論ビールも旨いレストランがあって、そこではDachsenfranzという名前の、上で書いたダクセンフランツを記念して、その名前を冠したビールをいつも飲むのです。

これは、旨いビールです。そこに行くと、いつも必ず友人と乾杯をして、ダクセンフランツを飲みます。(こんなビールです:<a href="http://www.dachsenfranz.de/">http://www.dachsenfranz.de/</a>)

とはいえ、ビールという飲み物は、オクトーバーフェストのあるが如く、皆で腕を組んで、歌を歌って、賑やかにやる飲み物です。

そのような祝祭にダクセンフランツは参加することはなかったことでしょう。

このように想像することは、やはり少し寂しい感じがします。

さて、そうだとして、こう考えて来ると、あなたが時間泥棒にならぬ方策は見えて来たようです。

この稿は、隠者との関係で時間泥棒を考えましたので、社会を引退し、隠遁した人間を基に考えたわけですが、しかし、ほとんどのひとは、社会の中で生き、現役で仕事をし、且つ時間泥棒と戦っているわけです。

今日の複数の結論のひとつは、社会の中にあって孤独であることの大切さということになるでしょうが、それには強烈なあなたの意志の発動を必要とします。それは、ひとことで、あなた自身の本来の生活を護るということです。しかし、他方、あなたはご自分の孤独をある程度、あるいは相当程度、許容しなければならない。社会の中の孤独は、軋轢の種だからです。

次回は、このことについて考え、そうしてなかなか行き着きませんが、時間泥棒撃退法に一歩でも近づきたいと思います。

(この稿続く)

2012年12月7日金曜日

変身について



わたしは一行の文があれば、それが日本語であれ、英語であれ、ドイツ語であれ、それを眺めて、多様な解釈をすることで時間を忘れ、何時間でも一行を眺めていられる人間です。

この写真も、われを忘れて魅入られたように見入ってしまいました。幾ら見ても飽きることがありません。この写真を見て、何故こんなに惹かれるかを考えてみると、上の段落に書いた、わたしの性癖を思い出しました。

一行の文が多義的であるというのは、詩文において典型的ですが、安部公房の一行もまた詩文の値を持っていて、多義的な解釈をゆるす言葉の集合となっています。

普通散文というものは、明解であり、達意を主眼としますから、その一行は前後の関係において一意的であり、その他の解釈をゆるさないように書かれます。

しかし、安部公房の一行はそうではありません。そうである限り、安部公房の散文は詩的散文だといううことができます。

そうして、結局、一行が多義的であるということ、即ち、その一行が多次元的な宇宙を前提にしているという事実は、この擬態に何かとても深い関係があるのではないだろうかというのが、わたしの思ったことなのです。

このように考えてくると、生物の擬態というものも、何か生物の持つ多次元的なありかたのひとつの姿なのではないかと思われて来ます。

それは何か?それを言葉に変換して、この問いに答えると次のようになるでしょう。

1.それはカメレオンである。
2.それはカメレオンではない。
3.それは葉っぱである。
4.それは木の枝である。
5.それは以上のいづれでもない何ものかである。

等々と、こう考えてくると、そうして上の1から5を一般化して考えてみると、この問題は結局変身の問題なのだということがわかります。

1.それは私である。
2.それは私ではない。
3.私はそれである。
4.私はそれではない。

と、このように考えてくると、古代インドのウパニシャド哲学の核心にあるサンスクリット語の言葉、Tat Tvam Asiを思い出します。

1.汝はそれなり。
2.それは汝なり。

古代から、人間という動物も変身をするのです。

何故人間は、そのものとそっくりであるということに感嘆し、感動し、強く惹かれるのでしょうか。

2012年12月2日日曜日

時間泥棒3 ー時間と空間の交点ー


時間泥棒3 ー時間と空間の交点ー

【時間泥棒の定義】

時間泥棒とは、他人の時間(という財物、財産)を盗む者である。特に誰にも知られることなくこっそりと、又は秘密裏に盗む者、また更に、そのような盗みまたは窃盗を専らの業となす者である。

ある時、あるセミナーに出席して、帰り道の途上、オークションについて考えていて、オークションとは何かという問いに答えることが、ある程度、というかわたし自身にとっては、かなりの程度、できたと思ったことがありました。

この経験を思い出して、時間泥棒とは何かという問いに関係して考えてみます。

わたしは、輸入のオークションをやっているのですが、この場合の問いは、

オークションとは何か、です。

それから、何故わたしはオークションにある心地の良さを感じているのかという問いに対する答えです。

確かに、わたしのこころの内を振り返ってみると、わたしはオークションが好きなのだということがわかります。

言い換えれば、オークションが性に合っている。

それは何故だろうと考えたのです。これは、セミナーのテーマとは直接には全く関係がありません。

しかし、どこかで脈絡が通じているのでしょう。そう思います。

さて、わたしは人と会う約束をして、ある時刻にある場所で会うというときには、必ず1時間前に到着するように計画をし、その通りに実行します。

それは何故かその時刻という一点に拘束されることが嫌(きら)いだ、嫌(いや)だという感情があるからです。

一点、その時刻の一点に神経が集中すると、その時刻以前の、その一刻までのすべての時間が無価値になると思われるのです。それ以前の時間のなかにいて物事に集中することができなくなるのです。

この無価値になるという感覚、集中力を喪失してしまうという事実は、非常な、普通以上の焦燥感としてわたしの中に鬱勃として起こり、継続し続けるのです。

これは、誠に堪え難い。

わたしと全く同じ人間に、アンデルセンというひとがいます。

あの童話で名高い、アンデルセンです。

この人の伝記めいたある記述を読んだときに、この作家が駅を汽車が発車する1時間前に必ず到着するようにしていたと書いてありました。あるいは、数時間前と書いてあったかも知れません。

これを読んだとき、わたしはアンデルセンという人がどういう人なのかが解りました。

わたしと全く同じ人間、同類なのです

このひとの作品の底流には、非情な、辛辣な人間に対する見方があると、わたしは思っています。

童話は全くそのような見方を裏切っているかのようですが、そうではないと思います。

同じように、人間とその人生を辛辣に見るならば、ガリバー旅行記を書いたスイフトもまた同じかも知れないと想像したりします。

いづれにせよ、わたしは彼らの仲間、彼らはわたしの仲間なのです。

さて、そうだとして、オークションの本質とは何でしょうか?

それは、ある場所(それは、言うまでもなく、オークションを開催する場所です)で、その一点の時刻に向かって、人間の判断と感情と計算と、従って価格の相場が、その一点を目指して、嫌が応でも収斂し、終結すること、このことそのものに潜んでいます。

即ち、その時刻の後が、その商品の値段、即ち相対的な価値にとって、存在しない。

その一点において、ものごとは終結して、交換原理が働く。売買が成立するということです。

その時点で、需要と供給が一致するのです。

オークションは、売買の一形態、一変形の形態です。いや、見方によっては、資本主義の核心にある売買形態です。(株式相場は、オークションの一種である。)

さて、ある時刻にある場所、時間と空間の交差した一点で、わたしがひとと会う事を恐れるのは、それは何故なのでしょうか?

それは、その時刻にそこにいっても、わたしは交換原理に裏切られるかも知れないと思っているのではないかと、その心理を考えてみます。

あるいは、わたしは普段子供の頃から、交換原理の支配しない世界に住んでいたという解釈も成り立ちます。交換原理の考え方をそもそもしていなかった。これは確かに事実としてそうです。

わたしがオークションが性に合っていると感じ、ある種の心地よさを覚えるのは、結果の落札額がどうあれ、その時刻に疑う事無く、間違う事無く、何の行き違いもなく、必ず、必然的に、ものと価値が交換されるから、買うよといい、いいよという意志が二つとも一致して、過つことなく約束が守られるからです。

そうして、そのことを、物事が始まる前から、既に知っているということ、これが大切なことで、これがわたしの安心の原因なのだと思います。

時間の外に出ようとして努力して来た人間が、時間に支配された、その場(オークション)の出来事に安心するということは、何か矛盾しているようにも思いますが、しかし、時間はこの次元(この世)では、無限に続くように見えながら、他方、オークションでは絶対的な意志が働いて、時間を切断し、ぶった切って、物事が100%終わる。

これが、わたしのオークションに対して有する安心感そのものなのです。

しかし、ひとと約束したときには、いつも約束された一点において約束が成就するとは限らない。

これが、現実の不確定なところです。

わたしは、わたしの意志に発し、その意志に基づいて、こうしたいと思い、こうしたいと思うと、目的が生まれ、目的が生まれるとそのための手段の順序を逆算して考え、時間の順序に従って、計画を立てます。

しかし、その計画の目的を達成するまでの間に、色々な邪魔が入る。

この邪魔の最たるものは、時間泥棒である。

(わたしの次元の中の意識がーあるいはわたしの意識の次元がー突然破壊されて、別の次元の時間に接続されることを余儀なくされる。)

というよりも、時間を泥棒するならば、計画遂行の邪魔となるものは皆時間泥棒である。

【時間泥棒の定義】

時間泥棒とは、他人の時間(という財物、財産)を盗む者である。特に誰にも知られることなくこっそりと、又は秘密裏に盗む者、また更に、そのような盗みまたは窃盗を専らの業となす者である。

こう考えて来て、この定義をつらつら眺めると、人間は一人で生きているのではないので、必ず個人の計画には邪魔が入るということになる。

いや、まてよ、ともうひとりのわたくしはいう。

人生における時間の絶対量は決まっているのだろうか?という疑問が浮かぶのです。

物理的な時間の量は、平均で計算されて、寿命何年と言われている。これは、世間の考え方である。

わたしは、自分自身の人生を平均値で考えたことが全くない人間であることを知っている。だからどのような、量を基準にして計算した人生モデルからも、規格外であり、外れている。わたし自身がそのような規格外の人間であるし、その家族も規格外である。

それは、わたしの、あるいは個人の人生の時間の質ということを考えて来たからだ。

この人生の質という観点から物事を考えると、単に時間の絶対量の奪い合いという考えはなくなる。

それでも、人間は愚かで、慾があるから、ひとの所有している(と思い、そのように見える)ものを奪はうとするので、争いは無くならないだろう。

そのように考える根底には、

1。ものは与えられているという考え

2。それらのものは、誰のものでもないという考え

という考えが無意識に潜んでいるだろう。

法律的な制度で暮らしているわたしたちの意識の根底には、このような意識があるということは、いつも社会を不安定にする。それが大きな社会であれ、小さな社会であれ。

と、このように考えて来る、そうしてまた定義を眺める、そうすると、やはり、だれもが時間泥棒になり得るということになることを知るのだ。

そうすると、時間泥棒の存在が可能性の世界にいる間に、逃げるか、回避するか、シャットアウトするか、その可能性の影響力を排除する手だてをうつということが大切だということになるだろう。

あるいは、可能性の世界でそれらの手だてが失敗したら、少なくとも蓋然性 (probability)の世界で、再度それらの手だてを講じることが大切だということになるだろう。そうでなければ、時間泥棒の出現が現実になってしまう。

いよいよ話が具体的になって来た。さて、実際にどうやって時間泥棒を撃退するのかという話が、次の話になる。

わたしの人生の計画がどのようなものであったかを振り返って、時間泥棒撃退の話を論じてみよう。

(この稿続く)

2012年12月1日土曜日

時間泥棒とは何か2 ーコミュニケーションとは何かー


時間泥棒とは何か2 ーコミュニケーションとは何かー

分厚いブリタニカという百科辞典を読みますと、コミュニケーションの例が挙がっていて、例えば、銅線の一端を熱すると他端が熱くなり、後者は前者と同じ温度を共有するに至ります。

即ち、あるひとつの導体というメディア、媒体を共有することで、両端点が同じ温度を共有することをコミュニケーションというのだとありました。

また、あるひとが風邪をひいたとします。そうして、別のひとがその風邪に感染して、熱を発し、前のひとと後のひとが同じ熱を発する状態を共有するに至ったとしますと、これがこれがビールスによるコミュニケーションというのであると書いてありました。

ビールスがメディア、媒体ということなのです。

これを要するに、最低でもふたりのひとが、あるひとつの媒体(メディア)を共有することによって、双方が同じ状態になり、また同じ状態を共有することをコミュニケーションというのだと、ブリタニカは定義しています。

これが、コミュニケーションの意味です。

電話は、時間泥棒であるなしに拘らず使われているコミュニケーションのツール(道具)です。

しかし、時間泥棒の場合には、コミュニケーションになっていない。いつも一方的にやってくるツールである。そうして一方的にコミュニケーションの開始を強制するツールです。

これらのツールは、同時に媒体(メディア)でもあります。

メディアという人間の文明の進歩は、利便性の進歩です。もっと一言で言い換えれば、
コミュニケーションをするために時間と空間の距離をゼロにしたいという欲望が
科学技術を使って、そのような進歩を現出せしめたということだと思います。

結局、このような文明の利器とどのように付き合うか、即ちどのように距離を置き、どのような場合に距離をおかないかという話になる。

自分の個人の時間を中心に考えるという方針で行きたいと思う。そのような人間を考えてみようと思う。

わたしがいつも不思議に思って来たのは、ひととひとが会おうとする場合には、いつも時間と場所のふたつのことを一致させなければ会う事ができないということです。

即ち、何処で(場所)といつ(時刻)のふたつの軸を以って、初めてお互いが会って一致する点を間違いないものにすることができるということである。これは何故だろうか。

さて、電話が暴力的なのは、個人の意識している時間の流れを遮断して、別の時間の流れに意識を無理やりつれて行くからである。

これは、わたしには堪らないことです。何故ならば、思考の流れを中断させられるからです。

しかし、その時間と空間を支配している者は、言葉を使って、その中の人間たちに命令を発し、服従させることができる。ここで、わたしのいつも考えるのは、そのような時空間が先に生まれるのか、それとも言葉が先に生まれるのかということである。

(このような支配者が、もし電話というメディアを使えば、個人という被支配者にとっての、時間泥棒である。)

そうして、いつもわたしの答えは、後者が先だというところに行き着く。やはり、始めに言葉があるのだ。

言葉という意味は、最初に概念が生まれたのであり、最初に概念があった、存在したのである。

二つの概念が交わって、様々な宇宙が一挙に生まれ、階層化した。そうして、概念は命であるので、そのような宇宙は毎瞬毎瞬生まれている。この二つの概念が交わって生まれるときに働く法則を、人類は既にして、最初から知っているのだというのがわたしの考えです。

それは、算数で掛け算と呼ばれ(算術演算)、またはブール代数で論理積(論理演算)と呼ばれる思考プロセスです。このとき、同時に足し算も計算されている。本当に不思議な世界です。しかし、規則性のある世界です。

これは、古代から人類が計算して来た思考プロセスなので、本当にだれでもそうやって考えて、何かを創造しているのです。文明も、この演算から生まれる。実に単純な、最初は眼に見えない小さな小さなセル(cell。細胞)である。列と行の掛け算で生まれるセル(entity。存在。実在。)

また、この小さなセルと呼ばれるものがentityと呼ばれるならば(そうして実際にそう呼ばれている)、対比的に、夜の天上に大きく広がる星辰、星座もentityである。Steve Jobsはスタンフォード大学の演説で”Connects dots!”と言ったが、点である星を接続して一筆書きでもとに戻ってくると、ひとつのまとまりとなり、それはentity(存在、実在)となる。概念は、孫悟空の如意棒の如く伸縮自在である。わたしはトポロジーという数学にとても惹かれる。安部公房のように。

文学や修辞学の世界では、その掛け算は、隠喩(metaphor)と呼ばれている。これは、詩文の命である。

算数の演算の集合論で言えば、掛け算は、共通集合の形成を言い、足し算は、それぞれの集合の範囲のことをさして言っている。

上に述べた思考のプロセスは、人間の命、また逆に生命の法則であって、人間もそこ(cell、細胞)から生まれた。

この法則を、わたしは、唯一の普遍言語規則と呼んでいる。

この規則から、千変万化の宇宙、森羅万象が生まれる。老子のいう、玄の玄、これ衆妙の門なりというときに、門が、この規則である。老子も知っていたのだ。(門は、漢語による分類の最上位概念のひとつ。)

玄の玄とは、ひとつの概念から二つ目の概念が生まれ、これら二つの概念が交わること、論理演算でいうならば、論理積のことを言っている。玄に意味があるのではなく(勿論意味はあるが)、「の」という助詞に重要な意味があるのだ(言葉、言語は二義的な場所、位置から生まれる。)

わたしたちの日常のコミュニケーションの根底には、このような概念同士のコミュニケーション(通信)があるのだ。これは、無意識の世界のことである。概念同士が互いに求め合うエロスの世界だ。

それで、わたしたちは日常言葉を使って、話をし、意思疎通を図ることができる。

さて、そうだとして、時間泥棒は何故生まれるのだろうか。

この問いに対する答えは、一寸一筋縄では行かない。何故ならば、上に述べたように宇宙ができているとしたら、個人は個人に対して互いに時間泥棒足りえているからだ。但し、そこに全体が備わっていないならば、だ。(人間は、この但書があるように、二義的な場所から生まれて来た。言葉、言語もそうです。)

全体とは、人間が関与するならば、断片的ではないということ、目的があるということである。

そこに、といった、そことは、その個人がいる場所のこと、時間を考慮に入れると、その個人が今ここにいるその次元ということである。

ひとつの次元には、その中にいる個人個人の眼に見えない、意識のされない、と言うことは隠れた、そういう意味では秘密の目的があるのだ。しかし、その目的を備えた全体は、個人の今ここにある意識にとっては、いつも割れた鏡が散乱しているように見えるのである。困ったことだ。そうして諍いも生まれ、誤解も生まれるのだ。

(この稿続く)