2012年12月9日日曜日

時間泥棒とは何か4 -隠者についてー


時間泥棒とは何か4 -隠者についてー

時間泥棒について考えているわけですが、逆に全く正反対に、時間泥棒ではない人間像を思い描いてみたら、それはどのような人間かと思って、直ぐ思ったのが、隠者でした。

隠者は、ひとの時間を無闇に、無体に奪うことはない。何故なら、ひととの交流が少なく、ひとりで住んでいるからです。

こうしてみると、時間泥棒は、社会の中で発生するものらしい。

しかし、その先へ行く前に、例によってWebster Onlineにお伺いを立て、隠者の定義を致しましょう。

Definition of HERMIT

one that retires from society and lives in solitude especially for religious reasons

 【隠者の定義】

隠者とは、社会から引退し、そして、特に宗教的な様々な理由から孤独の中に生きる者である。

二つ目の意味として、香辛料の効いた糖蜜のクッキーというのが面白い。どこかで、糖蜜は、英語の世界では、そうして香辛料の効いているということが、隠者に通っているのだろうか。

クッキーというお菓子は、その家庭に客を招じ入れて、受け容れたよという印に客に出すもの。家庭の奥深くにまで入ることを許したのですよということを客に伝えるお菓子。(だからパソコンのそれぞれの中にクッキーもあるということ。この場合のクッキーは譬喩。)

そのような性格のお菓子が、隠者と同義だとは面白い。いつも、言葉の意味は、両極端で相通じています。

あるいは、そのクッキーは余りに質素で、あるいは香辛料の故に味が一体に奇妙で、隠者しか食べない食べ物のようだと理解されるからでしょうか。

こうしてみると、時間泥棒ではないひとは、次のような性格を持っている。

1.社会と没交渉である。あるいは、社会の利益とは直接には無関係である。

2.孤独の中に生きるものである。

このように考えて来て、わたしはダクセンフランツ、Dachsenfranzという人間を思い出しました。

このひとの写真は、次のURLアドレスにあります。

http://de.wikipedia.org/wiki/Dachsenfranz

19世紀の末20世紀の初めのイタリアの独立戦争に出征して、何かの諍いから上官を殺したことから軍隊から逃亡し、ドイツ、オーストリア、イタリアの国境地帯を逃げて生活をした後、ドイツのKraichgau、クライヒガウという土地に50年ほど腰を落ち着け、その山や森に棲んで、野山や森の獣をとり、それらの肉や皮や獣脂を、町へ出てきて市場で必要なものと交換して(お金を貰ってもしようがないだろう)生活をした男です。

普段は森の中に住み、町に市が立つとやって来て、獲物を何かと交換して、また森へ帰って行く。

ダクセンフランツは、決して町の人々の時間泥棒ではありません。日本に二日市、四日市、五日市があるように、そこに住むひとたちの習俗にしたがって定例的に開かれる市にやって来て、交換という行為をする。

交換という行為は、お金をもらうのではなく、お金とは無関係に、お互いが等価で交換をして、満足をするという行為であったでしょう。ダクセンフランツから肉や皮や獣脂を貰った人間は、決してダクセンフランツを時間泥棒とは考えなかったでしょう。

その理由を挙げてみると、時間泥棒ではない人間とは、

1.普段は孤独に生きている

2.社会的な規則を守る

3.等価交換をして、お互いに満足をもたらす

ということになるでしょう。

しかし、一寸考えてみても、1と2を同時に(同時とは何か?です)体現することは、難しいことです。これが、多分、われわれ人間のほとんどの悩みの原因なのかも知れません。

【隠者の定義】

隠者とは、社会から引退し、そして、特に宗教的な様々な理由から孤独の中に生きる者である。

ダクセンフランツの場合、彼が一種の隠者になった原因は宗教的な理由ではなかったわけですが、それでもそのような生活を強いられることになり、多分ある時からはそのような生き方を積極的に選択したのではないかと思います。

そうしてまた3についても、これはほとんど全てのわたしたちの不平不満の原因ではないでしょうか。

あなたが何かを提供した時間が無駄になったと感じたら、その相手は時間泥棒です。即ち、何か等価な物事を、あなたに返さない人間だからです。

社会的な規則(人間に関する限り、規則はみな社会的です)に従えば、この不満と後悔はない。何故ならば、すべての規則は社会的な公正と公平を前提に、あるいはその実現を目的としてつくられていることを、わたしたちは皆知っているからです。

さて、何故わたしはダクセンフランツのことを知っていたのか。

実は、わたしがドイツへ行くと必ず訪ねるドイツ人の友人がおります。その村に料理も酒も、勿論ビールも旨いレストランがあって、そこではDachsenfranzという名前の、上で書いたダクセンフランツを記念して、その名前を冠したビールをいつも飲むのです。

これは、旨いビールです。そこに行くと、いつも必ず友人と乾杯をして、ダクセンフランツを飲みます。(こんなビールです:<a href="http://www.dachsenfranz.de/">http://www.dachsenfranz.de/</a>)

とはいえ、ビールという飲み物は、オクトーバーフェストのあるが如く、皆で腕を組んで、歌を歌って、賑やかにやる飲み物です。

そのような祝祭にダクセンフランツは参加することはなかったことでしょう。

このように想像することは、やはり少し寂しい感じがします。

さて、そうだとして、こう考えて来ると、あなたが時間泥棒にならぬ方策は見えて来たようです。

この稿は、隠者との関係で時間泥棒を考えましたので、社会を引退し、隠遁した人間を基に考えたわけですが、しかし、ほとんどのひとは、社会の中で生き、現役で仕事をし、且つ時間泥棒と戦っているわけです。

今日の複数の結論のひとつは、社会の中にあって孤独であることの大切さということになるでしょうが、それには強烈なあなたの意志の発動を必要とします。それは、ひとことで、あなた自身の本来の生活を護るということです。しかし、他方、あなたはご自分の孤独をある程度、あるいは相当程度、許容しなければならない。社会の中の孤独は、軋轢の種だからです。

次回は、このことについて考え、そうしてなかなか行き着きませんが、時間泥棒撃退法に一歩でも近づきたいと思います。

(この稿続く)

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