2012年12月1日土曜日

時間泥棒とは何か2 ーコミュニケーションとは何かー


時間泥棒とは何か2 ーコミュニケーションとは何かー

分厚いブリタニカという百科辞典を読みますと、コミュニケーションの例が挙がっていて、例えば、銅線の一端を熱すると他端が熱くなり、後者は前者と同じ温度を共有するに至ります。

即ち、あるひとつの導体というメディア、媒体を共有することで、両端点が同じ温度を共有することをコミュニケーションというのだとありました。

また、あるひとが風邪をひいたとします。そうして、別のひとがその風邪に感染して、熱を発し、前のひとと後のひとが同じ熱を発する状態を共有するに至ったとしますと、これがこれがビールスによるコミュニケーションというのであると書いてありました。

ビールスがメディア、媒体ということなのです。

これを要するに、最低でもふたりのひとが、あるひとつの媒体(メディア)を共有することによって、双方が同じ状態になり、また同じ状態を共有することをコミュニケーションというのだと、ブリタニカは定義しています。

これが、コミュニケーションの意味です。

電話は、時間泥棒であるなしに拘らず使われているコミュニケーションのツール(道具)です。

しかし、時間泥棒の場合には、コミュニケーションになっていない。いつも一方的にやってくるツールである。そうして一方的にコミュニケーションの開始を強制するツールです。

これらのツールは、同時に媒体(メディア)でもあります。

メディアという人間の文明の進歩は、利便性の進歩です。もっと一言で言い換えれば、
コミュニケーションをするために時間と空間の距離をゼロにしたいという欲望が
科学技術を使って、そのような進歩を現出せしめたということだと思います。

結局、このような文明の利器とどのように付き合うか、即ちどのように距離を置き、どのような場合に距離をおかないかという話になる。

自分の個人の時間を中心に考えるという方針で行きたいと思う。そのような人間を考えてみようと思う。

わたしがいつも不思議に思って来たのは、ひととひとが会おうとする場合には、いつも時間と場所のふたつのことを一致させなければ会う事ができないということです。

即ち、何処で(場所)といつ(時刻)のふたつの軸を以って、初めてお互いが会って一致する点を間違いないものにすることができるということである。これは何故だろうか。

さて、電話が暴力的なのは、個人の意識している時間の流れを遮断して、別の時間の流れに意識を無理やりつれて行くからである。

これは、わたしには堪らないことです。何故ならば、思考の流れを中断させられるからです。

しかし、その時間と空間を支配している者は、言葉を使って、その中の人間たちに命令を発し、服従させることができる。ここで、わたしのいつも考えるのは、そのような時空間が先に生まれるのか、それとも言葉が先に生まれるのかということである。

(このような支配者が、もし電話というメディアを使えば、個人という被支配者にとっての、時間泥棒である。)

そうして、いつもわたしの答えは、後者が先だというところに行き着く。やはり、始めに言葉があるのだ。

言葉という意味は、最初に概念が生まれたのであり、最初に概念があった、存在したのである。

二つの概念が交わって、様々な宇宙が一挙に生まれ、階層化した。そうして、概念は命であるので、そのような宇宙は毎瞬毎瞬生まれている。この二つの概念が交わって生まれるときに働く法則を、人類は既にして、最初から知っているのだというのがわたしの考えです。

それは、算数で掛け算と呼ばれ(算術演算)、またはブール代数で論理積(論理演算)と呼ばれる思考プロセスです。このとき、同時に足し算も計算されている。本当に不思議な世界です。しかし、規則性のある世界です。

これは、古代から人類が計算して来た思考プロセスなので、本当にだれでもそうやって考えて、何かを創造しているのです。文明も、この演算から生まれる。実に単純な、最初は眼に見えない小さな小さなセル(cell。細胞)である。列と行の掛け算で生まれるセル(entity。存在。実在。)

また、この小さなセルと呼ばれるものがentityと呼ばれるならば(そうして実際にそう呼ばれている)、対比的に、夜の天上に大きく広がる星辰、星座もentityである。Steve Jobsはスタンフォード大学の演説で”Connects dots!”と言ったが、点である星を接続して一筆書きでもとに戻ってくると、ひとつのまとまりとなり、それはentity(存在、実在)となる。概念は、孫悟空の如意棒の如く伸縮自在である。わたしはトポロジーという数学にとても惹かれる。安部公房のように。

文学や修辞学の世界では、その掛け算は、隠喩(metaphor)と呼ばれている。これは、詩文の命である。

算数の演算の集合論で言えば、掛け算は、共通集合の形成を言い、足し算は、それぞれの集合の範囲のことをさして言っている。

上に述べた思考のプロセスは、人間の命、また逆に生命の法則であって、人間もそこ(cell、細胞)から生まれた。

この法則を、わたしは、唯一の普遍言語規則と呼んでいる。

この規則から、千変万化の宇宙、森羅万象が生まれる。老子のいう、玄の玄、これ衆妙の門なりというときに、門が、この規則である。老子も知っていたのだ。(門は、漢語による分類の最上位概念のひとつ。)

玄の玄とは、ひとつの概念から二つ目の概念が生まれ、これら二つの概念が交わること、論理演算でいうならば、論理積のことを言っている。玄に意味があるのではなく(勿論意味はあるが)、「の」という助詞に重要な意味があるのだ(言葉、言語は二義的な場所、位置から生まれる。)

わたしたちの日常のコミュニケーションの根底には、このような概念同士のコミュニケーション(通信)があるのだ。これは、無意識の世界のことである。概念同士が互いに求め合うエロスの世界だ。

それで、わたしたちは日常言葉を使って、話をし、意思疎通を図ることができる。

さて、そうだとして、時間泥棒は何故生まれるのだろうか。

この問いに対する答えは、一寸一筋縄では行かない。何故ならば、上に述べたように宇宙ができているとしたら、個人は個人に対して互いに時間泥棒足りえているからだ。但し、そこに全体が備わっていないならば、だ。(人間は、この但書があるように、二義的な場所から生まれて来た。言葉、言語もそうです。)

全体とは、人間が関与するならば、断片的ではないということ、目的があるということである。

そこに、といった、そことは、その個人がいる場所のこと、時間を考慮に入れると、その個人が今ここにいるその次元ということである。

ひとつの次元には、その中にいる個人個人の眼に見えない、意識のされない、と言うことは隠れた、そういう意味では秘密の目的があるのだ。しかし、その目的を備えた全体は、個人の今ここにある意識にとっては、いつも割れた鏡が散乱しているように見えるのである。困ったことだ。そうして諍いも生まれ、誤解も生まれるのだ。

(この稿続く)

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