2016年9月7日水曜日

映画『シン・ゴジラ』を読む

映画『シン・ゴジラ』を読む

目次

1。シン・ゴジラとは何か?
2。S先生のご感想
3。シン・ゴジラと関係するその他の大切なこと
(1)海外でのシン・ゴジラの評判
(2)シン・ゴジラとアレゴリー
(3)詩とは何か
(4)再度シン・ゴジラとは何か
(5)ヨーロッパ白人種のGod
(6)モダニズム
(7)ポケモンGOとゆるキャラ
4。Cool Japanとは何か?
5。Role Reversal(役割交換)とは何か?
6。映画『シン・ゴジラ』と『君の名は。』の共通性
7。シン・ゴジラは、超越論で構想されていた

*******

シン・ゴジラとは何か?

先日の「虎ノ門ニュース」で、百田尚樹氏が映画観劇の感想をおっしゃっていて、これ以前のゴジラは皆、観客としてゴジラを応援して、自衛隊をやつけるゴジラに共感を覚えて見てきたものが、今回のシン・ゴジラは、自衛隊がやっつけろという、ゴジラが憎いからゴジラを攻撃する側の応援に廻ってみるゴジラ、今までと全く違うゴジラだったと感動しながら云っているのを見ました。

これ以外にも、二度映画館に脚を運んだといい、それ程に素晴らしい映画だという賞賛の言葉を、何人もの方の口から聞いたので、私も珍しく映画館に脚を運んだ次第です。

この感動は、ご自身の年齢や以前のゴジラ観劇体験の有無を問わず、他の観客も同様ではないかと思われる。新鮮な、全く新しいゴジラ、シン・ゴジラである。

それは、どこに最初に私は見たかというと、ゴジラはこの映画では4段階に変態するわけであるが、その海から上がった最初の姿が地面という、幼いさなぎのように水平面を這って歩く、ゴジラの姿であったということに、今までのゴジラとは全く異質のゴジラの姿を見たのである。

第1形態のゴジラの眼は死んでいる。

最初の地を這うゴジラは、「ゴジラ」以前のゴジラである。第4形態というゴジラに至るまでの間の2段階のゴジラの姿は見ることがない。それは海の中で変態するから。この目に見えない隠された二つのゴジラの後に、最終形態の新しいゴジラ、シン・ゴジラが姿を表す。「ゴジラ」以後のゴジラである。

この最終形態のゴジラは、従い、アナログではなく、デジタルで、即ち時間連続的にではなく、時間非連続的に、人間の眼のまえに突如として、垂直方向に屹立するゴジラ、シン・ゴジラとして、姿を現わす。

シン・ゴジラの眼は生きている。

今まで日本人の造形する怪獣は、如何にも作り物めいていて、偽物という感じがあり、それを承知で、日本人はゴジラに惹かれ、ゴジラに喝采を送っていた。ニセ・ゴジラである。第1形態のゴジラの眼は、如何にも作り物の、従来の、ゴジラに限らない日本人が敗戦後作ってきた全ての怪獣ものの眼、縫いぐるみの眼、ゴッコの眼である。(この姿に私は監督の意図を感じる。)だから、それ以前のゴジラは皆、観客として無責任に、偽物のゴジラを応援して、自衛隊をやつけるゴジラに共感を覚えて見てきたものを、今回のゴジラは、自衛隊よ、やっつけろというように、自衛隊の応援に廻って全員がみるゴジラだったのではないか。シン・ゴジラである。

しかし、シン・ゴジラの眼は誠に小さく、更にしかし小さいだけ其の分だけ大きく逆に怒っており、怒りが凝縮している玉(ギョク)のように見える。ギョクといえば、やまと民族の玉が、日本の歴史上初めて、怒りを表したのだ。映画でゴジラの眼を見てごらんなさい。

このシン・ゴジラの体内で、2016年日本人は覚醒した。何故ならば、シン・ゴジラが、その身を犠牲にして、自衛隊による「ヤシオリ作戦」の決死行によって薬が口腔から体内へ注入されることによって体が冷却して活動停止に至り、巨大な彫像のように首都東京のど真ん中に死んで屹立して垂直方向に立つ、即ち無時間の方向に天に向かって立ち、静止することによって。シン・ゴジラは犠牲である。この犠牲の静止は永遠だろうか?「永遠のゼロ」であろうか?

ヤシオリ作戦のヤシオリとは、八塩折之酒(やしおりのさけ)のことであり、これは日本の神話の有名な登場人物である素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、八岐大蛇(やまたのおろち)を殺すために用いた酒の名前である。

恐らく、ゴジラの命と引き換えに、ゴジラの死によって、日本人は逆に、体内が熱くなり、生き生きと、水平方向に、従い生きていることの日常の時間の中に、つまり敗戦後の偽物の虚構の現実の中にではなく、自分の意思で普段の日本人の生活を生き始めたのではないか?それが、ここかしこで聞く、シン・ゴジラを二度見に行ったという声の証明の根拠なのではないか?

それを象徴するのが、冒頭に始まる日本国憲法の、ゴジラ出現という異常事態に対処するための条文解釈の議論の喜劇である。これは喜劇だ。私は何度も思わず笑ってしまった。日本人はやっと、この原文英語の、10日間の、憲法の専門家も一人もなしに作成した(制定ではなく、本当に作成という薄手の日本語にふさわしい)アメリカとGHQのやっつけ仕事の翻訳憲法の正体を、日本人の無意識下の70年の苦渋を、このように笑いとユーモアを以って、映像で表現することができる段階に達したのだ。日本人も進化した。日本人も変態したのだ。海の底の二つの隠された段階が、戦後の70年であったということなのである。シン・ゴジラである。

日本人というシン・ゴジラの眼は生きているだろうか?

映画の最後に出てくるシン・ゴジラの映像は、シン・ゴジラが無数の焼け焦げて苦しんでいる人間の体から成る集合体になっている。あなたにはそう見えなかったか?それを見なかったのであれば、三度目の観劇をお勧めする。あれは、大東亜戦争で亡くなった日本人の、また広島長崎にアメリカによって国際法違反で大虐殺された罪のない、そして軍人ではなかったのに殺された、日本人たちへの鎮魂の彫像である。

このシン・ゴジラの犠牲の上に、敗戦後の私たちの生活の安定があったのだということである。敗戦後の日本を復興したのは、戦地へ赴いて死地をくぐり抜けて生きて帰還した、俗にいふ戦前派の当時中年の働き盛りの大人たちだった。そのあとはこの世代の息子たちの、戦前の旧制高校生であった世代が引き継いで、そうやって1950年の復興を、1960年代の高度成長を、成し遂げたのだ。苦労に苦労を重ねて敗戦後の日本人は生きた。問いたい。敗戦後の教育を受けた日本人は、一体何をしたのか?、と。「ゴジラ」以前のゴジラばかりを量産してきたのだ。シン・ゴジラは、時間を超越した、圧倒的に垂直方向に立つ「ゴジラ」である。

何故今までのゴジラは、日本の首都東京ばかりを襲い破壊してきたのか?これが私の年来の、日本人に対する問いであった。日本国憲法の偽善的な解釈に実に象徴的であるように、自虐的なゴジラである。ゴジラは、本来は、これを大東亜戦争の隠喩(metaphor)ととるならば、皇居のある東京ではなく、アメリカのニューヨークとワシントンD.C.を襲い破壊すべきことであった。

「ゴジラ」以前のゴジラ、即ち憲法第9条第2項はそれほどに日本を象徴しているのか?そう、映画の冒頭で喜劇的であるほどに、今のではなく、今までの日本を象徴していたのだ。この映画を見たらもはや、誠にありがたいことに、このことを過去形で書くことができる

今の敗戦後の「憲法」によれば日本の国を象徴するのは神武天皇より今上陛下に至るアメノシタ/シラシシメス/スメラミコトである。憲法を超える存在、それが、シン・ゴジラ、である。憲法を遥かに超越している、時間のない存在である。象徴という言葉はそれ以外には使いようがない。何故ならば、敗戦後の憲法は、人間が作ったのである以上、人間の手によって修正可能であるから。もっと言えば、人間の意志で、核兵器と同様にいつでも廃棄できるからである。シン・ゴジラは、人間の手になるものでは、全く、ない。
前の段落で用いたカッコのない憲法という言葉の意味は、映画を見た方はお分かりの通り、「ゴジラ」以後のゴジラ、シン・ゴジラは、日本国一国の問題解決のレヴェルを超え、日米安全保障条約のレヴェルを超え、国際連盟のレヴェルを超えて、地球上の人類のレヴェルでの解決を人間に対して要求している以上、地球上で近代国家を立て憲法を有する国家のすべての憲法を意味している。シン・ゴジラの存在は、そのような諸国を超えているのだ。

さて、ゴジラは、そのようにGod+zillaであり、作中人物の一人が其の字義を解釈して見せたように、神に等しい存在である。しかし、それは実は最初はゴジラではなく、アメリカが密かに呼ぶGodzillaであった。日本人は日本語で名前の付けていない、日本人の知らないGodzillaという巨大未知の生物であったという設定に、この映画の叡智がある。
初めてゴジラがアメリカからやって来たのだ。

今まで、アメリカから日本にやってきて日本の国を破壊するゴジラが一度でも制作されたことがあろうか?何故日本人の製作する今までのゴジラは、日本の首都東京ばかりを襲い破壊してきたのか?

しかし、この映画では、アメリカのGodzillaが、日本語に翻訳されて、日本政府が自らの意思で、ゴジラと日本語で呼ぶことに決定する。シン・ゴジラである。

あらゆる意義と意味において、シン・ゴジラである。

この主客が倒置され、主体と客体が交換されて生まれた水平面を、冒頭のモスラの幼虫のような第1形態の巨大生物は這い、海底での2段階を閲した後一層に巨大な姿となって再び現れた時には最終形態に至っていて、最後には垂直方向に屹立し、従い無時間の中に、時間を超越した存在として、そのまま首都のど真ん中に立っている。

「私は好きにした。君らも好きにしろ」という言葉が、自分自身の命と引き換えにしてシン・ゴジラを創造した牧博士の一行から成る遺言書の簡潔簡素な中身である。これは、観客たるあなたへの遺言です。映画の冒頭に宮沢賢治の処女詩集『春と修羅』が映り、これが題名の通り、この映画の世界の季節はシン・ゴジラが生命の謳歌する春であり、シン・ゴジラは「ああかがやきの四月の底を/はぎしり燃えてゆききする/おれはひとりの」修羅であること、しかしまた日本人も、その修羅と戦う自衛隊もまた同じ修羅であることを陰陽それぞれの演ずる役割ともに等しく暗示しているのである。Role reversal(役割交換)である。

この博士もまた、最初から海の中に喪われた人間として、第2第3形態のゴジラのように、姿を隠し、死者として全篇に亘って絶えず登場している生きた英霊の一人である。

もう一つの同じ姿をした「ゴジラ」が、海底に眠っているのである。あなたは、これを海神(わたつみ)と呼ぶのであろうか?

もし此の映画監督がもう一度続篇を撮影しようとしたら、ゴジラはまたいつでも息を吹き返し、また繰り返して自分の二本脚で歩き始めることができるのではないだろうか?屹立するシン・ゴジラは、そのようなゴジラに、私には見える。

永遠とは、そのような意味ではないのか?

一回だけ、繰り返さないことを誓うのではなく、永遠に繰り返すことを誓うことが、人間にとって本質的な、大切なことではないのか?どの民族にあっても。日本ならば、伊勢神宮の遷宮のやうに、千年単位の時間の中で変わることなく続けることこそが。

日本人は、この映画を見て、敗戦後にやっと再び、敗戦直後を苦労して脱して其の後忘れ呆けていた、忘却していた戦争を思いだしたのだ。

「シン」・ゴジラ、である。

この意義において、3.11の大津波と大地震以来の、大勢の死者を悼む心から自然に生まれた絆(きづな)という、日本人の選択した言葉は、誠に尊く、正しいものだと、私は思う。生(き)の綱である。その延長に、そして其れを超えて、シン・ゴジラは不動に立っている。シン・ゴジラは不動明王である。あの背鰭は光背である。光背からアメリカ軍爆撃機の群れを一瞬で壊滅させる光を幾つも幾つも発してゐるではないか。

「シン」ゴジラは、多義的な解釈を幾らでも許してくれる、素晴らしい、新しい「ゴジラ」映画である。

ここから先は尚、語ることは尽きない。

あなたも、もう一度映画館へ日本の脚で、いやご自分の脚を運んでご覧になってはいかがでしょうか。あなた自身が、最終形態に変態し、自分の二本脚で立つために。


S先生のご感想

私の上記1の映画評をお読み下さった、ある読書会でご一緒してゐる日本文学がご専門のS先生の感想とコメントです:

「シンゴジラ評、拝見しました。私の友人の仏文学者が、シンゴジラに異様に敵意を燃やし、観に行った日の夜、「軽すぎる!」・「オレは庵野が大嫌いだ」と一晩中、Twitterで叫びつづけた。周囲が相手になるのに疲れてスルーするようになった翌朝も、まだ止まらなくて、はっきりいって異様でした。

ご批評を読んで、彼が何であんな「醜態」をさらしたかがよく理解できました。「フランスを使って、アメリカのパワーポリティクスを抑え込む」というのは、戦後の日本の左翼インテリの夢であった。その「夢」の実現を、ある意味、身も蓋もないカタチでシンゴジラは描いた。仏文学者は、おそらく日本のなかで、戦後的左翼インテリの含有率がもっとも高い集団です。自分のたちの「願望」をあそこまで身も蓋もなく描かれて、私の友人は狼狽したのです。「憲法」をはじめ、日本の戦後システムが、戯画化されつつきわめてわかりやすいかたちであの映画には描かれている。そんなご指摘を受けて、友人の仏文学者がどうしてあんな具合の反応をしたかが、、深く腑に落ちた次第。

Sさん(筆者註:Sさんは大阪のご出身)が「自分は親米派なのに、シンゴジラに対し嫌な気持ちにならなかった」というご発言は、(Sさんが)「大阪人は「システム」と「ゴジラ」の両面に共感する」とおっしゃっていたのと、私の中で重なりあいました。戦後の日本は、安保もあることだし、結局「対米従属路線」でやっていかざるを得ない。それに文化の面でも、野球が好きで、ディズニーランドとハンバーガーなしには生きられない。そのことを骨身にしみてわかっている面と、そうした「アメリカに支えられた日本」が、「ニセモノ」でしかありえないことにいら立つ面。その両方をSさんは抱えておられる。だからSさんは、「ゴジラをやっつける側」と「ゴジラ」に同時にシンパシイを感じた。そしてこの点は、村上春樹もSさんとおなじだと思われます。」

シン・ゴジラと関係するその他の大切なこと

この章の文章は上の読書会での、シン・ゴジラを巡る議論と疑問に関して回答した私の、この映画に関する解釈ですが、一般化してそのまま読むことができるようにして私の考へを示したものです。

1。海外でのシン・ゴジラの評判
今日本語圏での海外のシン・ゴジラ評を見ると、海外で評判が良くないと書いてありますが、しかし、私はこれは疑わしいと思っています。何故ならば、次の日本語の記事があるからです:http://lineblog.me/dessart/archives/10320685.html

「一方、ハリウッドでもゴジラ映画の製作が進んでいる。1998年に最初の米国版「ゴジラ」が公開。

 その後、2014年にも米映画会社ワーナー・ブラザースが「ゴジラ」を公開、現在この続編「ゴジラ2」がスタンバイ中で19年3月の封切りがすでに決まった。翌20年には「ゴジラvsキング・コング」の公開もすでに決定している。

 また来年、全米公開されるキング・コング映画「コング:スカル・アイランド」には、ゴジラが“カメオ出演”するとの情報もある。」

このやうにアメリカで既に本日現在で計画されてゐるアメリカ製のゴジラがあるのに、ゴジラといふものがアメリカで嫌われてゐるわけがありません。勿論、日本製のゴジラがアメリカ製の、ハリウッド映画の薄っぺらい、ただ興奮し感激してお終ひといふ怪獣怪物映画になり得ることはあります。

2。シン・ゴジラとアレゴリー
私はシン・ゴジラをアレゴリー(寓話)とは見ていません。志水義夫先生の論じたゴジラのやうに多義的な存在と見ています。しかし、アレゴリー(allegory)という英語の意味も、今辞書を引くと、a symblic representationとありますから、日本語で言う寓話とは少し異なっていますね。英語の意味ならば、yesですが、更にしかし、一つのゴジラが"symbolic representations"を体現しているという意味です。シン・ゴジラは、そのような多義的で且つ統一感のあるゴジラになってゐると思ひます。

それに、私はいわゆる寓意や寓話でそもそもは理解する人間ではないのです。私は散文の修練をして来た人間で、社会の中でこれを追求してきた者ですので、文学の世界に戻って来て、叙情的に、また先生のいふ括弧に入れたポエムの中に入ることは、感じる人間として、できますが、それに浸かって生きる人間ではないのです。勿論、私も「ポエム」といふ通俗的な叙情を知ってをりますし、否定してゐるのでは全然ありません。

西脇順三郎を例に引いたのは、この読書会で安部公房の回の課題図書になってゐる「赤い繭」といふ作品を読むときに、この問題が必ず出てくると予測したからです。アレゴリー(寓話と訳したallegory)か、隠喩(metaphor)か、事実か。といふ議論です。それを事前に提示しておきたかったのです。西脇順三郎が詩とは何かを説明するために持ち出した一行の文「茄子は紫の瓢箪である」といふ一文は(エッセイ『オーベルジンの偶像』)、果たしてallegoryか、metaphorか、事実か?といふ問いです。私の回答は、もちろんこれらは言葉ですから、その意味はcontextによるといふものです。つまり、言葉のつかひ方に依るのです。どの場合もあり得る。逆に、アレゴリー、隠喩、事実である場合のcontextを創造することが、議論をする私たちの仕事になるでせう。それについて考えることが。

私は散文家ですので、常に例外なく、一義的には言語的な現実、即ち言語による事実の創造を考えてゐます。Elias Canettiのいふ第二の現実、即ち現実と等価交換可能の事実からなる現実です。

3。詩とは何か
ええ、西脇順三郎の詩論で言いたかったことは上の通りですが、他方、それが読者という他者に何かを喚起させることに、その使命のあることも、全くその通りです。それを、Canettiは第二の現実と呼んだわけです。安部公房は、藝術家といふ人間は言葉によって存在すると言いました。これが、この言語藝術家の人生を貫いてをります。三島由紀夫は同じことを、言葉が最初にあり肉体が遅れてやって来たと言いました。

4。再度シン・ゴジラとは何か
私も、古事記との関係も論じ、折口信夫の説を引用して自在に論ずる志水先生のやうな神話の生き物としてシン・ゴジラを読みとってゐます(志水義夫著『ゴジラ傳 怪獣ゴジラの文藝学』参照)。あれは、最後に、意図的な時間の長さを以つて映し出される焼け焦げた、天に向かって手を差し伸べて苦しむ原爆で虐殺された死者たち、その他の大東亜戦争で死んだ死者たちの姿であることから、

(1)無辜の民として死んだ、本土の日本人たちの集合:アメリカによる国際法違反の犯罪の大空襲と二発の種類の異なる実験的な原爆投下
(2)従軍して死んで、死者となった英霊たちの集合、従い、御霊を祀るといふことから、
(3)全国にある神社と神々、従い、八百万の神々の集合、また、
(4)(1)と(2)のことから、関西の大震災と関東の3.11で亡くなった方、死者たちの集合
(5)(4)の自然による、即ち人間が制御できない大災害と、それが原因で起こった原子力発電所の事故で被災した方たちの、又同時に私たちの、恐怖の感情のrepresentation(対応・照応関係を体現したもの)、また、
(6)上記(3)のことから、天の下知らししめす天皇(すめらみこと)が、すべての神社の統帥者であり、国民のサキハヒのために祈る祈祷者であることの記憶の想起。

といった事柄を実にバランス良く統合的に表現されたゴジラ、それ故にシン・ゴジラだと思っています。

上記(6)については、ネットの批評の中に、最後に冷却されて動きを停止した垂直に屹立するシン・ゴジラが顔を向け、あのギョクの目玉の向いてゐる方向は、皇居であるといふものがありました。実際にどうあれ、この言葉は実に生々しいものがあります。

シン・ゴジラは、これらの過去敗戦後70年間といふ時間に加へ、それ以前からの日本の近代化の時間の中にある一つのcontext(1)から(6)をまとめて一つにいふことができてゐます。他方空間的には、この映画の素晴らしさは、地球的な規模に及んでゐることです。日本一国で解決ができないゴジラというのは、今までのゴジラとは違いますね。シン・ゴジラです。

5。ヨーロッパ白人種のGod
ニーチェが『Zarathustra』の中で、God ist tot (=God is dead)といふ、キリスト教徒にとっては恐ろしい一行を書いてから、白人種の唯一絶対のGodは、言葉の上では死にましたが、しかし実際にはどうか、もしGodを信仰しないとしたらどうなるかということが、近世17世紀のバロック時代からの本格的な、これは探究であったといふのが、私の結論です。それで、

(1)資本主義
(2)民主主義
(3)哲学

これらが生まれた。

(1)は経済形態、(2)は政治形態、(3)は思考形態です。

これらの最上位にあるのは、(3)の哲学です。(3)の下に諸科学があり、政治も経済もある。

唯一絶対のGodから逃れてものを考へると、今詳細は省いて結論を言いますと、汎神論的存在論に向かいます。これは思考論理の必然で、何故奴ら紅毛人が、哲学の始祖を古代ギリシャの、即ち多神教の世界の人間に求めたのかといふ理由と心理と、それからやはり人間として自分の頭を使つて考えた場合の論理の帰結する方向を示してゐます。さう思ひます。

キリスト教の絶対唯一のGodを立てたことの思考欠陥は、再帰的な論理を絶対的に否定し、排除したことです。キリスト教は、それ故に、自らに戻って(再帰的に)物を考えることがない。従ひ、キリスト教は、キリスト教以外の宗教形態を排除し迫害し破壊しますし、白人種以外の人種を人間とは思ふことがない。それが歴史的事実です。

従ひ、キリスト教と其の影響下に生まれた資本主義、民主主義、そして(誤解を恐れずに言えば)哲学までもが、キリスト教といふ一神教と一緒にやってくる限り、侵略的です。つまり、現下の言葉で言えば、globalismです。何故ならば多神教の世界の人間には、そのような哲学は、そもそも生まれつき不要であるからです。つまり、その哲学のむかふ汎神論的存在論は、すでにキリスト教やユダヤ教やイスラム教といふ一神教以外の多神教の宗教では当たり前のことで、八百万の神々の古代的な世界です。神社に各地でお参りする私たちの、実は普段の日常感覚です。これを「皮膚感覚」と呼ぶなら、さう呼んでも良い。

(しかし考へてみれば、この地球上で戦争を起こして来たのは、同じGodを戴いてゐると称してゐる一神教ばかりではないか。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教。)

上記5との関係では、カントの「崇高」という概念は、Godの存在しない場合の、やはり神聖性を求めたものでありませう。それは、ニーチェの言葉は、キリスト教の世界では神話の英雄がゐなくなったことを日常的感覚では意味しますから、

さて、英雄のない時代に如何に「崇高」ではない、英雄的にではない個人固有の死を如何に死ぬかといふことが、1900年に死んだニーチェや、その時25歳であったリルケやトーマス・マンの課題でした。同様に、八百万の神々の世界に住みながら、(1)資本主義(2)民主主義を100数十年前に持ち込まねばならなかった(そうでなければ白人種の植民地となって日本もまた他のアジアの国々のやうに収奪の限りを尽くされてゐたことになってゐた筈の)日本である以上、三島由紀夫や、安部公房の課題でもありましたし、二人以外の作家にとっても、さうであったのです。

安部公房の『赤い繭』や『魔法のチョーク』を、このやうなcontextで読むことは、勿論可能です。そのように生きようとした人間がどのような論理で、どのような感情で、これらの関係をどのように考えて生きようとしたかを、これらの作品から読み取ることができます。その解決策もまた。

6。モダニズム
実はモダニズムについては、私は無知です。言葉は知っておりますし、西脇順三郎はモダニズムだという言葉をどこかで読んでこともありますし、今に至るまで戦後を引きずって残っている(ここまでは私の意見)思潮社といふ詩専門の出版社もモダニズムだと正津勉さんといふ詩人が発言したのを目の当たりに聞いたこともあります。

モダニズムとは何かです。

今Wikipediaを見ると、

「モダニズムは20世紀以降に起こった芸術運動、特に第一次世界大戦以後(戦間期)の1920年代を中心にした前衛的な動向を指す。 従来の19世紀芸術に対して、伝統的な枠組にとらわれない表現を追求した。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/モダニズム

とありますので、これは「伝統的な枠組みにとらわれない表現」といふ限り、それは一番徹底的には、時間を捨象した表現となります。リルケがそうでしたし、トーマス・マンがそうでしたし、安部公房も三島由紀夫もそうでした。

しかし、これらの藝術家は果たしてモダニズムなのでせうか?時間を捨象して空間的に言語の構造の有機体(第二の現実)を創造するこれらの人間は、モダニズムという時代限定の考え方から、時間を捨象するのですから、モダニズムとは無縁であるといふのが、私の考へです。

同じことが、敗戦後の日本にもあって、猫も杓子も、前衛前衛といい、アヴァンギャルドアヴァンギャルといひ、実存主義実存主義といひ、マルクス主義マルクス主義といひ、これらは、白人種のキリスト教の世界では上述の歴史から言っても意味がありましたが、八百万の神々の私たち日本人の世界では、そもそも不要ですから、当然のことながら、すべての思想が時代制約的な流行で終わりました。団塊の世代は今もこれら白人種の思想に依拠して毎日必死に生きているのか?左翼といふ、白人種にとって(資本主義と民主主義に対して)歴史的な価値ある此の用語ですら、既に日本にあっては死語ではないか。21世紀になった今も安部公房を論ずれば、前衛(アヴァンギャルド)として論ずる白人種の研究者に、私たちは無理につきあふ必要はないのです。勿論白人種にとっては意味がある。しかし、もういい加減に、日本語に生きる私たちの、私たちによる、白人種の肺腑を抉(えぐ)るやうな、独自の安部公房論があるべきです。私は此れを「二十一世紀の安部公房論」と呼んでゐます。

確かに凡百の「命脈は尽きている」のです。全く同感です。安部公房の同時代を生きた、若い時に生きの良かった、しかし年をとってただそれだけで、若さに頼って生きただけだということのわかる、つまり時代的な制約のある複数の友人のゐることを私は全集を読んで知ってをります。安部公房は辛辣です。敗戦直後のあのマルクス主義や実存主義やシュールレアリスムの思想の流行と軽薄な理解に、「ああ、あれはムード(雰囲気)だったからね。」と、そのやうな類の友人たちの一人に、安部公房は普通になんといふこともなく、後年の対談で当人に、さう言つてをります。

7。ポケモンGOとゆるキャラ
上記7の文脈(context)においては、ポケモンGOは、八百万の神々が意匠を変えて、登場したことの事実ではないだろうか。そうだというのが、私の考えです。ゆるキャラもそうです。

これらの可愛い怪異の生きものが、土地土地に現れるといふことに、白人種ならば地霊、genius loci(ゲニウス・ロキ)を、即ちキリスト教の滅ぼした古代の多神教の世界の神々を思い出してゐるのではないだろうか?ゲルマン人ならば、ケルト民族の末裔ならば、いやそうでなくとも、さうでありませう。哲学の始祖を多神教の世界である古代ギリシャのソクラテスに求めた欲求。これと同じ欲求が、実はCool Japanと英語で呼ばれる、日本の文物の世界的流行の本質なのではないか?

先だって、国際会議のために日本に参集して、白人種キリスト教徒たちの国々を代表する首脳たちが伊勢神宮に参拝したといふ事は、民族と神話との関係で、20世紀型の一斉同報大量情報提供型のマスメディアは一切論じることが不能(impotenz)であったが、神話と神々の古代の世界との関係で世界的・世界史的、文明史的・文明論的に見れば、これは人類にとって一大事件であったのではないか?シン・ゴジラが、アメリカから初めてやってきて日本に上陸して、そのやうな解決策を人類に要求したのと全く同じことであるやうに。

シン・ゴジラも、このcontextで、実はシン・ゴジラを見る各国の人間の深層心理には、あるのではないか?ただし、アメリカ人にとっては、日本との大東亜戦争の記憶があるので、アメリカ人が評価しないか誤解をするか魅力を感じない可能性(possibility)はある。アメリカの公開が10月といふ(日本公開とほぼ同時の)早い時期にありながら、しかし440館といふ限定をつけて公開されるということは、何かそのあたりの事情を、アメリカという国の心理を暗示しているのではないか?といふのは推測でありますから、これは引き続き観察を要します。

Cool Japanとは何か?

このやうに考へて参りますと、Cool Japanといふ呼称は、実は日本がcoolであるのではなく、日本といふ国とその文化・文物が、英語でそのやうに呼ぶ国々と人々にとってcoolであるといふ意味であり、そのやうな使いひ方であり、従ひそのやうな文脈、contextであることがわかります。つまり、一神教の世界が多神教の世界、八百万の神々の世界、即ち日本、21世紀のジパングを、必要としてゐるといふことになります。以下、私の愛用するWebster Onlineから。本論に関係のある行には下線を施しました。:http://www.merriam-webster.com/dictionary/cool

Simple Definition of cool
: somewhat cold : not warm or hot

: made of a light, thin material that helps you stay cool
: able to think and act in a calm way : not affected by strong feelings

Full Definition of cool
1
:
 
moderately cold :  lacking in warmth
2
a
  : 
marked by steady dispassionate calmness and self-control <a cool and calculating administrator ― Current Biography>
b  : 
lacking ardor or friendliness <a cool impersonal manner>
c  of jazz  : 
marked by restrained emotion and the frequent use of counterpoint
d  : 
free from tensions or violence <we used to fight, but we're cool now>
3
used as an intensive <a cool million dollars>
4
:
 
marked by deliberate effrontery or lack of due respect or discretion <a coolreply>
5
:
 
facilitating or suggesting relief from heat <a cool dress>
6
a
  of a color  :  producing an impression of being cool; specifically  :  of a hue in the range violet through blue to green
以下、上記3の章をお読みくださった、読書会の主宰者Sさんよりのご感想に対する私の返信を、cool Japanの意義と意味をお伝へするために、そのまま引用します。

「Sさん、ご感想ありがたうございます。

さうですね、Cool Japan、私達はcoolではありませんね。一神教の人たちが、自分たちの何か熱狂を覚ましてくれる日本文化なので、coolなのですね。

確かに、明治以来かうして振り返ってみますと、奴らは騒々しいこと、この上ない。その最たるものが戦争でしたね。何度も何度も。そして今も、です。何故一神教の人たちは、戦争ばかりを起こすのか。仰る通りに、私もシン・ゴジラはCool Japanでは無いと思ひます。シンゴジラの体内の高熱は冷却によって体外に発散してゐる筈ですから、今度はhot, hotter, hottest Japanの筈です。資本主義と民主主義と哲学と科学によって近代文明を作ったヨーロッパのキリスト教の白人種の心胆を寒からしむるのではありませんか。

さうであれば、余り興行的には成功しないかも知れませんね。自分たちがシン・ゴジラの放射熱でhot, hotter, hottestになるわけですから。上記3の末尾に書いたやうに、アメリカでの興行の成果を注視しませう。

Genius loci(地霊)といふ言葉は、学生の時にLessingを授業で読んで知ったのです。爾来社会に出て仕事をしながら折に触れ思ひ浮かぶので、それが何かを繰り返し考えてきたのでした。まさか、ここで、シン・ゴジラのcontextで突如、シン・ゴジラのやうに記憶の海底の深みから、日本人である我が身の上に上陸するとは。

映画『Sleuth(スルース)』(『探偵』)、ご覧になったのですね。さう、本当に知的で洒落てゐて、傑作でした。DVDを買ってしまひました。通俗では全然無い娯楽、entertainmentですね。こんな小説を書いてみたいし、読みたいものです。

さう、迷路は冒頭の導入部に探偵小説作家の邸宅にあるバロック風の迷路の庭園に敵役のマイケル・ケインが尋ねる所から始まり、家の中で演じられるお互いの役割を演ずる事が恰も迷路を行くやうでしたから。

さういへば、老年の探偵小説作家の用意したプロットとシナリオによって、二人は役割を交換しますね。Role reversalですね。これも今思へば、安部公房の登場人物たちの世界ですね。医者が患者になり、患者が医者になり(『密会』)、船長が船員になり、船員が船長になり(『方舟さくら丸』)。『砂の女』の女、砂の穴の外に出ることを諦めてゐた女が最後には自分の意志に逆らって穴の外に出て、出たい出たいと切望してゐた男が自分の意志で穴にとどまる役割を演じ、といつたやうに。」


Role Reversal(役割交換)とは何か?

安部公房の読者には親しいこの概念を再度説明します。あなた自身を知るために。以下もぐら通信第17号掲載の『安部公房の変形能力18:まとめ~安部公房の人生の見取り図と再帰的人間像~』より当該箇所を引用してお伝えします。

「(10)安部公房の作品は、水戸黄門や遠山の金さんのお話と同じです。これらの主人公は、通俗的なわたしたちの心理が求めるところに従って、最後には正義が勝ち、悪を懲らしめるわけですが、しかし、普段は別人に変装し、世に隠れて生きているところが全く同じです。

安部公房の登場人物たちは、同様にみな同じ面の上に(水戸黄門や遠山の金さんならば世間という庶民の平面の世界の中で)同じ価値を持たされて並んでいて、安部公房の世界の登場人物たちは、インターネット時代の用語を使えば、みなsuperflatな世界に住んでいます。(これが普通の社会人の垂直構造になれている感覚からみると、その作品がシュールレアリスティックに見える理由です。)その世界には絶対的な正義はないので、お裁きがないのです。従い、その代わり、告発者が被告になったり、被告が告発者になったり、登場人物たちは、お互いの役割を交換し、そうすることによって、互いの関係を変化させることができます。医者が患者になったり、患者が医者になったり。船長が船員になったり、船員が船長になったり。

このような役割の交換を、人類学の用語で、communitasと呼びます。これは、人類学者の観察によれば、社会が流動化して、大きな変化を経験しているときに生まれる儀礼である(これも儀礼になりえる)と説明されています。Hatena Keywordから引用します(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%E0%A5%CB%A5%BF%A5%B9):

「【communitas】スコットランドの文化人類学者ターナー(Victor Turner, 1920-83)が提唱した概念。
通過儀礼(イニシエーション)の中での人間関係のあり方を意味する。
身分、地位、財産、男女の性別や階級組織の次元など、構造ないし社会構造の次元を超えた、あるいは棄てた反構造の次元における自由で平等な実存的人間の相互関係の在り方と定義されている。」

文化人類学者のこの観察が正しければ、安部公房の意識は、いつも変化の中に自分自身をおいていたということになるでしょうし、その限りにおいて、安部公房は終生前衛の、アヴァンギャルドの作家だったことになり、他方、その世界の一定した諸要素の機能化によって、その世界は構造を以って安定しており(或いは逆に、構造があるので、諸要素の機能化が成り立つというべきでしょう)、偉大なるマンネリズムの作家ということができるでしょう。この二つは、安部公房の中では、少しも矛盾しておりません。

(11)さて、このcommunitasということからも、従い、安部公房の主人公たちはみな、普通に固定した社会だと思っている社会の法律の外に生きている人間たちであるということになります。それは、安部公房の実存の考え、即ちその人間の未分化の状態という考えからいっても当然のことでしょう。法律の外に棲んでいるということ、このことが読者に安心感を与え、読者を魅了するとは、なんということでしょうか、読者というものは。

さて、図像ではなく、言語の世界に戻って、言葉で再帰的な人間を定義してみましょう。」

このrole reversalといふ視点で、時間の中での役割交換とは、言葉を換へていへば、転生輪廻といふことになります。安部公房の言葉によれば、「三島君とは接点はすべて共有していたが、その関係は裏返ってゐた」といふ両極端の二人、即ち三島由紀夫の仏教と唯識の転生輪廻の物語『豊饒の海』その他の作品、それから安部公房のすべての作品を、この視点で読み直すことは、敗戦後の日本の文学の新しい、そして決定的な、世界文学的な論点を私たちに提供するでせう。それが、バロックといふ差異の概念なのです。

映画『シン・ゴジラ』と『君の名は。』の共通性

上記5のrole reversal(役割交換)といふ視点から見れば、この二つの映画は同じ主題を扱ってゐます。

それが、role reversal(役割交換)であり、ともに私たち人類の、多神教の世界に棲む古代ギリシャ人はこれをlogos(ロゴス)といひましたが、その深い転生輪廻の意識に関わる論理から生まれた作品だといふ事です。ヒンズー教も仏教の思想もそれから生まれ、釈迦も此の論をなした。私たちは、21世紀の今Cool Japanの一部として此ををなしてゐる。

この視点から、二つの映画を論ずる論考を期待します。

今度は、安部公房の読者であるあなたに論じてもらいたい。Role reversalを。


シン・ゴジラは、超越論で構想されていた

「シン・ゴジラと常盤橋プロジェクト」について書かれたブログがあります。


このブログによれば、東京の破壊された建物には、未来に立てる予定の三菱地所のビルやその他の高層ビル群があったとのことです。以下引用します。

「レビューとかじゃないんでいきなり最終決戦のヤシオリ作戦の話をしますけど。
さんざん東京3区をゲロ放射熱線で火の海にしたゴジラ酔っ払いよろしく東京駅ホームでグッスリご就寝なんでそこが決戦の舞台となった訳ですが。

ネットの感想見てるとみんな列車爆弾の印象の方が強く残ってるみたいなんだよね。

(略)

それも凄いけど観てて一番の衝撃だったのはゴジラの後ろですよ。
118.5メートルの史上最大ゴジラの3倍以上あるやつ。


見た瞬間えっお前何で建ってんの?ってなった。

(シン・ゴジラのカタログであるか何かの配布・販売資料の写真は割愛します。未来の丸の内に建てた高層ビル群を前に、構想されたシン・ゴジラが立っています。)

しかも八重洲一丁目東地区市街地再開発事業(地上250m 2023年度完成予定)もいるし。

そしてゴジラに壊されるならともかく、なんとこれらを全部大爆破
まさか常盤橋プロジェクトが完成するよりも10年も早く爆発四散するのを見ることになるとは思わなかった。

無人機だー背びれビームだー新幹線爆弾だーであれよあれよという間に、• グラントウキョウノースタワー(物理攻撃)
サピアタワー(物理)
八重洲一丁目東地区市街地再開発事業(物理)

ときてとどめの
常盤橋街区再開発プロジェクト(A棟)(物理)
常盤橋街区再開発プロジェクト(B棟)(物理)
だからね。

もう正直

 2027年完成予定の現時点で存在しないビルをわざわざモデリングして登場させてるんだよ。ゴジラにぶつける為だけに。

製作期間中の去年の8月末に常盤橋プロジェクトが三菱地所から発表された時、庵野樋口コンビは「これゴジラにぶつけたら面白そうだよね」とか会話したんだろうか。

三菱地所もすごいよね、
20年以上かけて続く大手町連鎖型都市再生プロジェクトの総まとめの国家戦略特別区域指定計画ですよ?
三菱地所が威信をかけて手掛ける総事業費1兆円超の日本最大(予定)のビルですよ?

それを景気よく根本から大爆破でゴジラの頭にドーンですよ。
丸ビルも新丸ビルゴジラの背びれビームでドカーンよ。

これを許可した三菱地所ちょっと懐が深すぎない?
いやJR東も三井不動産もだけどさ。」

この常盤橋プロジェクトについての記事を読むと、このひとは、実によく東京とゴジラのことをよく知ってゐる。

さて、といふ事は、この映画シン・ゴジラは、超越論で構想されているといふことです。安部公房の『第四間氷期』の世界と同じ論理です。これを超越論だと、白人種の哲学という学問ではいふのだといふ話は、もぐら通信のあちこちで何度もお伝へしてきた通りです。


鞍馬天狗や月光仮面やウルトラマンと同じです。(仮面ライダーは日常の時間の中で相手の見てゐる前で変身しますので、このヒーローは超越論によるものではありません。)

即ち、「ほら」「いつの間にか」「どこからともなく」シン・ゴジラが現れて、「ほら」「いつの間にか」「どこからともなく」、私たちは、その世界に「既にして」ゐるのです。

確かに第2第3形態のゴジラは海の中にあつて見えなかったけれども、しかしその故に最初と最後のゴジラは、シン・ゴジラとなって前触れもなく突然に「ほら」「いつの間にか」「どこからともなく」現はれたのではありませんか?

ここには、時間が存在しない。

それが夢のやうであり、狐につままれたやうであるから、そのわけを知りたくて、観客は二度も三度も脚を映画館に運ぶ。しかし、因果律で、従ひ時間の中で時間の順序に従つて考へる限りは、その問ひに答へは出ない。時間の無いシン・ゴジラの世界です。従ひ、始めも終りも無い。最後に東京駅前に垂直といふ時間のない方向に屹立するシン・ゴジラは、この映画監督がまた自作の撮影を始めれば、またいつでも其の姿勢から動き出しさうに見える。

同じ監督によるエヴァンゲリオンは、その当時のある時代からみての未来を描いた物だといふことですが、今回のシン・ゴジラは、未来にある物を現在に登場させて、謂わば未来と過去を現在で交換して時間を無化した作品となつてゐる。

庵野監督もまた、進化し、変態したのです。

間違ひなく、この監督の至つた此の思考形態、即ちヨーロッパ人が哲学の領域でいふ超越論(独: Transzendentalphilosophie, 英: transcendental philosophy)が、これからの日本人に深い影響を及ぼすでせう、いや既に、観客動員数としてみれば明らかなやうに、及ぼしてゐるわけです。

かうしてみると、ヨーロッパの哲学者や藝術家たちの反応が楽しみです。もしこの超越論の論理を主体に宣伝すれば、この映画は、ヨーロッパで大ヒットする筈です。何故ならば、この映画がヨーロッパ近代文明500年への、白人種からみれば「大航海時代」への、それ以外の多神教の、八百万の神々の世界に住む諸民族からみれば大虐殺時代への、批判の映画だと解釈され得るから。

大航海時代、大虐殺時代が、丁度500年をかけて地球を一周して、今移民問題となってヨーロッパに戻って来た時に、日本の国で此の映画が製作されたといふことの意義は誠に深いものがあります。お釈迦様ならば因果応報とおつしやつてゐることでありませう。

これは、このやうに思考の領域から皮膚感覚に至るまでのあらゆる意味で、また此の映画が描ゐてゐるやうに日本の国一国のレヴェルを超えて地球規模の視点からみても、日本人にとつては、やったぜ!といふ映画です。

といふことは、反対に、アメリカ人の反応は、鈍い場合があり得るといふ事を意味しています。何故ならば、アメリカには哲学は無いから。アメリカは『安部公房のアメリカ論 ~贋物の国アメリカ~ 』(もぐら通信第22号)で論じたように、親のゐない孤児の国です。スーパーマンもバットマンもスパイダーマンも親がゐない孤児である。アメリカ人の英雄(hero)には親がゐない。そして同じ理由で、ハンバーガーもコーラもジーンズもディズニーランドも皆ヨーロッパ由来の換骨奪胎してできた、しかし実にアメリカ人らしい素晴らしいuniversal specificationの贋物である。これが、アメリカでは440館での限定上映といふ理由かも知れません。これは、あくまでも可能性に関する推測の域を出ませんが。

これで、大体シンゴジラ論は出尽くした感があります。あとは海外の反応待ちとなります。私もネットで海外の反応を注視したいと思ひます。

0 件のコメント:

コメントを投稿