2016年9月25日日曜日

私たちは、何故TVをみなくなったのか?


私たちは、何故TVをみなくなったのか?


目次

前篇
        1。あるTwitter(SNS)での投稿
        2。マスメディアであるTV放送
        3。マスメディアであるTV放送本来の目的
        4。マスメディアである新聞紙
        5。マスメディアであったレコード盤とiTune(携帯音楽)
        6。マスメディアである紙の書籍と電子書籍(携帯書籍)
        7。マスメディアである映画館と携帯映画(Netflix)

後篇
        8。Heuristic thinking
        9。幕内弁当論
        10。俳諧論
        11。まとめ
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1。あるTwitter(SNS)での投稿
最近twitterの投稿をみていて、このような投稿を目にして、思うところがあったので一文を草します。

ある父と息子との会話です。

息子が独立して家を出た。父親がその部屋を訪ねたところTVがない。何故TVを買わないのかと父親に問われた息子の答えです。

「TVは、スイッチを入れると途中で始まるから。」だから、買わないというのです。そのようなものは対価を払ってまでして、手に入れる価値がないといっているのです。

これは、今のわたしたちの意識のことを考えてみると、この息子は若者ですし、若者ですらですから尚更ですが、しかし、この意識は全く年代を隔てることなく、どの年齢層にも共通してある意識なのではないかと思ったのです。

そして、このように考えて、実際にどうだろうかと或る時、20代から60代までの人達からなる10名ほどの席で、皆さんTVを見ますか?と質問したら、誰もTVを見ておりませんでした。

この意識を言い換えると、自分の時間があって、それはいつも自分が始めることができ、終わらせることができるのに、TVにはそれがないということを言っているのです。

これは、mobility、mobileを手にして移動して、いつでもどこでも、即ち相手や対象との、また求めるものとの距離と時間が0になった時代の意識の、普通のありかたです。

自分の時間は自分で制御できるのだし、そうしたいのだ。これを時間の個別化と呼ぶことにしましょう。時間のpersonalization(個別化)、あるいは、personalized time、個別化された時間です。

2。マスメディアであるTV放送
これに対して、マスメディアであるTV放送は、大量一斉同報であって、通信のmobilityを手にした個人または個衆のひとりひとりにとっては、意味をなさない。意味をなさない番組のひとつ(あるいはほとんど)が、複製技術によって制作された番組です。

そんなコピーされた、過去に制作されて今大量一斉同報するようなものは、既にネットでYouTubeのように個人がスイッチを入れることができ、途中で別のことがしたければ停止ボタンを押して動画を停止状態にすることができ、また途中から再開して、最後に至ることのできるサービスがあるのであるから、そのように実況中継ではない、ライブではない放送でない限り、TV受像機の前に座って、あらかじめ指定された時刻に始まる時間につき会う必要はないのです。

従い、TVは本来自分の始まりに戻って考えるべきでありましょう。即ち、TVとはそもそも何であったのかという原点です。そうしてみると、最初期のTV放送は、すべて実況中継であったことが思い出されます。ドラマもスタジオでライブで劇を行い、役者はやり直しのきかない一回限りの演技をして、その様子を実況中継したのでありました。

3。マスメディアであるTV放送本来の目的
ということは、実況中継の大量一斉同報こそ、本来のTV放送の固有の領域であるということになります。近代のメディアの歴史、技術の発達と共に、次のように考えることができます。このことは、安部公房も言っていて、今全集のどこにあったか、引用できないのが残念です。曰く、

(1)絵画→写真
(2)演劇→映画
(3)映画→TV
(4)TV→インターネット上の動画(YouTube)と実況中継(ustream)

と、このように藝術と技術は発達してきたが、それでは後進の藝術と技術が前進の藝術と技術を衰退させて、滅ぼしたかというと、確かにそのような藝術と技術もありましょうが、残った後進があれば、それはもともと固有の領域に戻って、それに忠実であったために残ったのだという安部公房の意見です。さて、その眼で上の歴史を振り返ってみますと、

(1)の絵画は、写真の登場によって、その役割が廃れたかというとそうではない。やはり、絵画には絵画固有の価値を持つ領域があって、そこに残っております。
(2)の演劇も、映画が登場したから廃れたわけではない。
(3)の映画も今度はTVの出現によって、確かに衰退はしましたが、しかし、やはり今でも其の世界は確かにあり、後述するようにメディア(媒体)を変えて、技術の進歩とともに、人間の意識の変化に適応して、生き延びるどころか成長を続けています。さて、
(4)のTVが、この稿の対象であり、TV固有の領域を思い出そうというのです。

さて、このように考えて来ると、TVの固有の領域、即ち実況中継の大量一斉同報は、報道であり、報道だけが此のメディアの命脈を保つ役割なのではないでしょうか。つまり、事件の実況中継です。

そうすると、TVのその役割は、事件、eventということから、ゴルフ、野球、テニス、サッカーなどのスポーツ、国会の議事、音楽会、演劇の実況中継といったことが考えられます。
しかし、更に考えてゆくと、既にこれらの専門チャンネル(放送ではなくチャンネルと呼ばれる、即ち(NHKのように)一つのTV局が複数のチャンネルを総合的にまとめるのではなく、各チャンネルが独立しているそのようなものが既にあって、既にそのような放送がチャンネル別に個別に行われています。

すると、大量一斉同報のTV局は何をすればよいのだろうか?この事情と全く同じ事情は、マスメディアである新聞紙にも起こっています。

3。マスメディアである新聞紙
今新聞紙が売れないのは(敢えてメディア(媒体)の特性をあらわにするために新聞ではなく、新聞紙と呼びます)、インターネットという距離と時間を0にするメディアの登場によって、報道、即ち事件に関する速報性の喪失が原因だと、わたしは思います。何故なら、インターネットの特性は次のようなところにあるからです。

(1)伝播の範囲の無限といってよい拡大
(2)伝播の高速度
(3)上記(2)と(3)に基づく瞬時の情報の共有と周知

ですから、TVの場合と同様に、新聞紙の生き残る道は、専門の報道をする、例えば、プロレスの新聞、ゴルフの新聞といったように種目を絞ったスポーツ新聞、釣りの新聞、競馬の新聞(これは今でも既に売れている)と名前を挙げてみれば、個別主題の特殊特別の新聞が重宝されるということになります。

5。マスメディアであったレコード盤とiTune
同じ意識の変化は、音楽の世界にも起こっています。それは、メディアの変遷と裏腹の関係にあります。

レコードというメディアのあった時代には、一枚のレコードは一人の歌手や一つのグループのための曲が総合的に収められていました。ビートルズのアルバムはどのアルバムもビートルズの作曲したビートルズの曲ばかりです。他の音楽グループも個人の歌手も、このようなレコードの総体をアルバムと呼んで、上のTV放送局が複数のチャンネルを持つのと同じなレコードの総体をアルバムと呼んで、上のTV放送局が複数のチャンネルを持つのと同じ形態を、一枚のアルバムは備えています。即ち、1メディア:1人物:1制作物でした。

しかし、インターネットの時代になって、ことにスティーヴ・ジョブズがiTuneというサービスを始めてから、そうしてiPodを発売してから、音楽の世界も同様に、この技術的進歩に因って、急激に変化を遂げました。このiTuneというインターネット上の音楽配信サービスの愛好者には、もはや1メディア:1人物:1制作物という意識はありません。

何かのグループのファンであるとか、あの歌手のファンであるということよりも、あの歌手のあの曲、このグループのこの曲、その歌手のその曲、あのグループのあの曲といったように、一曲一曲を自分の好みに従って、安い単価で購入して、自分の手元においておくこと、それは自分で自分のアルバムを制作するのと変わらない。しかし、それは既に上で述べたような旧来のアルバムではない、従い、それはアルバムと呼ぶものではない何かだということになります。

アルバムとは、普通にわたしたちが言う家族アルバムがそうであるように、ある親しい集団についての写真が収納されているものが、アルバムなのでしょう。

とすれば、異種多彩な歌手やグループそれぞれの曲を収納する行為は、アルバムを制作するとは、もはや言えないことになります。スティーブ・ジョブズは、そのようなコレクション(と呼んでよいものかどうかは、まだ吟味の余地がありますが)を収蔵する場所をiPodと呼ぶハードウエアに実現したのですし、このpod(坩堝)という名前からして、何もかも異なったものを混ぜこぜにして一緒くたにして収める器としてのメディアだと、この命名はいっているのです。

6。マスメディアである紙の出版と電子書籍
この同じ事情は、書籍の世界では、アマゾンにあっても同様であり、紙の書籍を販売していたことから更に此れを延長させてKindleという携帯型のmobilityのあるmobileである読書装置を販売し、ネット上で電子書籍の購入を、読者がその好みに従って行い、この場合は名前が確定していて、自分の図書館、libraryをつくることが当たり前になっているのと、このiTuneのサービスとは、同じ事柄であることがわかります。図書館にはコレクションもあるでしょうから、そうしてみれば、iTuneにあっても、それは個人の収集する楽曲のコレクションと呼ぶことができることになります。コレクションを、日本語で書籍の文脈で日本語にすれば、文庫ということになるでしょう。

さて、このふたつのサービスの共通項は、自分の好みの作品を収集して、自分の好みの世界を創造し、それらの作品をすべて携帯できるというということです。そうして、時間と距離は0になっているインターネットの特性を利用して、そのmobilityによって、いつでもどこでも利用することができる。

何か既成の、お仕着せの、大量生産でできた商品は不要であるという意識であり、これはそのまま、20世紀までの資本主義と民主主義の根底にあった考え方、即ち個人は何かを所有することが自明とされた前提が、自明ではなくなっていて、それは一箇所に留まる所有ではなく、携帯であり、持ち運びであり、従い、その限りにおいては、持たずに必要な其の時だけ借りるという考えであり、単に何かにアクセスして読み、視聴できれば、それで十分だという考えであり、所有ではなく一時的に必要な時にだけ借りれば良いという意識でもあります。(この議論は奥が深く、政治と経済の形態の話に及びますので、機会を改めて、安部公房の視点で見るとどう見えるのかを論じることにします。)

7。マスメディアである映画館と携帯映画(Netflix)
としてみれば、映画の領域では、既にNetflixというiPadやスマートフォンや、あるいは自宅のpersonal comupterの上で、幾つもの場所を移動しながら観ることのできる携帯映画館のサービスがあります。その背景も上に述べたところと事情は変わりません。

さて、実際に今、あなたの意識はこのようなものではないでしょうか?

(続く)



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