2015年1月12日月曜日

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の墓

中田耕治さんのウエッブサイトから、興味ふかい記事なので、一部引用をしてお伝えしたいと思いました。


「日本のどこかに玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の墓がある。

いうまでもなく、「西遊記」の三蔵法師。三蔵法師なら,誰でも知っているだろう。そんなえらいお坊さんのお墓にいつか詣でてみたいと念願してきた。 

しかし、その願いはついに果たせなかった。 
         
玄奘三蔵は、長安に葬られたが、のちに宋の時代、南京に移されたという。日中戦争の際に偶然、発掘され、当時,日本に協力した汪兆銘が改葬した。このとき、遺骨の一部が日本に贈られた。日本側は上野の寛永寺で霊骨恭迎法要をいとなんだのち、長安の大慈恩寺にちなんで、埼玉県岩槻市の慈恩寺に奉安した。ときに、一九四四年(昭和十九年)十二月二十三日。」

 玄奘三蔵のお墓は、埼玉の岩槻市にあることになります。

ご興味のある方は、訪れてはいかがでしょうか。

2015年1月2日金曜日

三題話:Kiss Your Miseryというロックバンドと物のあはれと三島由紀夫

三題話:Kiss Your Miseryというロックバンドと物のあはれと三島由紀夫

昨年末に、ある忘年会の席で、ロックバンドでベースを弾くという若い女性と隣の席になって話をする機会を得た。

そのバンドの名前を尋ねたところ、Kiss Your Miseryと答えたので、驚いて、その意味を説明した。

お前の惨めさに口付けせよ、お前の惨めさに接吻せよ、お前の惨めさにキスをしろ。

これは、人間が生きるということは、この通りのことだという解釈をして、その意味を伝えた。そうして、次のことは、言わなかったが、しかし、このロックバンドの若者たちのこころには、やはり、物のあはれが生きていると思った。

本居宣長が生きていたら、さぞ驚いたことだろう。

やはり昨年末に三島由紀夫の『暁の寺』を読んでいたら、もののあはれという言葉を、この作家は使っていた。やはり、この言葉と、もののあはれというこことは、現代にも生きているし、また生かさうとした作家が、三島由紀夫という作家であるのだと思った。

もののあはれを知るこころにある思いを、このバンドを創設した女性が書いているブログを見つけましたので、URLをお伝えします。これも、現代の若い女性らしい、そうして母親らしいと思いました。

http://ameblo.jp/liraloha/entry-11840629254.html

また、YouTubeでの演奏の様子です。

https://www.youtube.com/watch?v=BU0a8T9RYcQ

Facebookにもページを持っています。

https://www.facebook.com/pages/Kiss-your-Misery/245319815669437?pnref=story

もし機会があれば、是非演奏会を尋ねて下さい。

2015年1月1日木曜日

真鍋先生


2009年09月08日20:23

真鍋先生


悲しみの感情は、何故過去に向かうのだろうか。ひとは煙草を吸うが、わたしの観察と知見では、喫煙者は、そのとき、過去を回想しているものだ。知らず知らずのうちに。それは、何か、慰めを求めているということなのだろうか。

でも、わたしは、煙草飲みでは、全然ない。これは、やはりヤク(酒)が足りないせいであろうと、どうも、今日も一日仕事をしながら考えたが、そう思う。

今日は、真鍋先生のことを思った。この先生は、わたくしのドイツ語の先生です。

わたしが20代から30代の前半にかけて、先生は、60代から70代にかけて、謦咳に接して、直接お教えいただいた先生です。

真鍋先生からは、語学ももちろんそうですが、しかし、人生というものを教わりました。そのふたつが、分かち難い。

若かったわたしに、ご自分の人生のことを、折にふれ、活き活きと話しをしてくださって、人間が生きるということは、こういうことなのかと教わったのです。

決して、わたしの自惚れや不遜なこころからではなく、わたしがドイツから帰ってきてからお会いしている間に、2度、それぞれだれか別のひとたちのいる前で、わたしのドイツ語が抜群にうまくなったと、感に堪えたようにおっしゃってくださったことは、わたしの大切な、こころの宝物です。

また、ふたりで、夜、ドイツ語の学校から駅へ向かっていくときに、あなたはずっと来てくださいねとおっしゃた言葉が、今でも忘れられません。わたしは不肖の弟子で、その後怠惰な生活をしてしまったけれども。

インターネットで真鍋先生の名前を検索して、次のURLアドレスを見つけました。

真鍋先生は、上海で領事館の書記官をつとめていらしたのですが、日本が敗戦したので、他人をかばってはいけない(多分支那人をかばってはいけないと忠言されたのです)、自分の命が危うくなるからといわれたにもかかわらず、そのひとをかばったために、連合軍によって死刑の判決を受けています。

先生曰く、支那の人は、先生のことを真鍋大人と支那語で呼んでいたそうです。きっと支那人の社会にも入っていって、ひとを大切になさったのでしょう。大人と支那人が、その言葉本来の意味で呼んでくれたように、品位のある、背の高い、体格のよい(京都大学ではラグビーの選手でした)、威風堂々、穏やかな、座談の好きな、素晴らしい先生でありました。

真鍋先生とのことを書き始めると、とても書きおさめることができません。

それでも、このようなウェッブページを発見して、わたしは、あらためて、この先生の薫陶を受けたことを、しみじみとありがたいこと、かけがいのないことだと思うのです。

そういう方であるからこそ、このような行為をしたことを、自慢することは、ありませんでした。わたしは、知りませんでした。そういう人間であれば、このような行為は、できなかったことでしょう。

ご縁のあるかたがたに、少しでも読んでくださるとうれしく思います。

http://www.urban.ne.jp/home/hecjpn/lectures/200111DrStoessinger.htm

このページがいつなくなってもよいように、そのまま以下に引き写して、あなたにお伝えいたします。

「ジョン・ストシンガー博士講演」 サンディエゴ大学名誉教授
               2001年11月8日 ホロコースト記念館 (広島県・福山市)

わたしは、一度ならず、 2度も日本人外交官に助けられた

皆さん、今日はお集まりいただきましてありがとうございます。 私はたった今、大変感動的な出会いをして参りました。 私の人生の中でこんなに美しい、こんなにすばらしい子どもたちを見たことがある でしょうか。 御幸小学校の多くの子どもたち(5年生80人)が、私たちを迎えてくれました。 彼らはホロコースト記念館を毎年訪れ、ホロコーストを学んで、平和への思いを表 現した、5点の貼り絵壁画(横3縦2メートル)にした作品を紹介し、歌(ビリー ブ)を歌ってくれました。 もしかしたら子どもたちのお父様やお母様が、今日ここにお集まりなのかも知れま せんが、。御幸小学校に行っておられる子どもたちの関係の方々、手を挙げていた だけますか。とてもすばらしい子どもたちですね。 今朝、子どもたちは愛と勇気について話してくれました。

今日出会った子どもたちと同じ年頃であった時、私は(ユダヤ人であったため) ナチスの恐怖のもとで暮らしていました。 ヒトラーがオーストリアに侵攻してきた時(1938年3月)に、私たち一家はウ イーンを脱出しプラハへ逃げましたが、ヒトラーはチェコスロバキアにも侵攻して いました。(1939年3月)

ナチスの手から逃れるため、私たちは必死になって領事館を尋ね歩き、ついに中 国・上海へのビザを手に入れました。プラハから上海まで行くためにはソ連を横断 しなければなりません。

そこでまずモスクワのソ連領事館に行きました。そこで言われたのは、ソ連を通 過するのはいいけれども、ソ連を出国するという証明が必要だと言われました。つ まりシベリア鉄道でソ連を横断して、日本を通過するビザが必要でありました。1 941年のことでした。
 ちょうどその時に、このような噂を聞きました。

「プラハの日本領事館に新しい領事がやって来た」と。そしてその領事はユダヤ 難民など、行き場のない人にビザを与えているというのです。そこで私たち一家も 領事館の前に並びました。とても長い列が出来ていました。そしてやっと私たちの 番が来て領事館の中に入りますと、とても優しそうな30代の紳士が私たちを待っ ていてくれました。(杉原千畝領事のこと。氏はリトアニアのカウナスの後 ,当時プ ラハの日本領事館に赴任していた。)

私はその時13才でした。その日本の領事は私に向かってドイツ語で「日本語を あなたは話しますか?」と聞きました。日本語で私は「はい」と言う言葉しか知り ませんでしたが、その日本領事に向かって「はい」と言いました。

すると杉原さんは「よろしいそれでは3枚ビザを出しましょう」といってくれま した。
この3枚のビザが私たち家族の命を救ったのです。父、母、私の3人です。
こうしてソ連を無事通過し、神戸から上海へたどり着きました。しかし1941 年3月、私たちが上海に着いた頃、日本軍が上海を占領していました。事態はあまり いいとは言えませんでした。上海にいるユダヤ人たちはゲットー(隔離地域)へ移 され始めていました。
さて私たち一家がソ連をシベリア鉄道で横断している時に、車中でもう一人の親 切な日本人との出会いがありました。真鍋良一博士であります。その車中で真鍋博 士と親しくお話をするようになり、私はチェスを一緒にしました。真鍋さんはわざ と、私を勝たせてくれましたので、私は真鍋さんをとても好きになりました。

ウラジオストックに到着し、船で日本海を渡り、別れのときが来た時、真鍋博士 は私の母に名刺を渡し、「上海でもし必要なことがあれば私に連絡をしてくださ い。」
母は喜んでその名刺をいただき大切に財布の中に入れ、敦賀で別れました。 (ストシンガー一家は神戸に3週間滞在し、そこから上海に渡りました。)

しかし、(1941年12月真珠湾攻撃があり、その後)上海は日本軍に占領さ れました。上海のユダヤ人たち(無国籍外国人・難民)は皆ゲットーへ移動するよう にと命令されました。その時私の母は、シベリア鉄道の車中で出会った真鍋さんの ことを思い出したのです。 母は言いました「真鍋さんに会いに行こう。彼はきっと私たちを助けてくれるでし ょう。」
 母は領事館へ出かけ真鍋さんと会いました。

真鍋さんは私たち家族に、一年間の滞在許可書を発行してくれました。それによ って私たち家族は、ゲットーに入らなくて済んだのです。

そのおかげで私はそれまで通っていた、イギリスの公立学校に続けて通うことが 出来ました。

そこで英語、フランス語、中国語、そして少し日本語を勉強しました。日本語は あまり得意ではありません。

そして1944年、45年にもやはり母は真鍋博士に出会い、特別な許可をもら ってゲットーに入らずにすんだわけです。

このようにして私たち一家は、2人の日本人によって救われました 。

上海で学校へ通い続けることが出来たことで、私は英語が話せるようになりまし た。
それで戦後、アメリカの大学へ留学する道が開かれ、数年後ハーバード大学へ入 学することができました。(ハーバード大学で国際政治学の博士号を取り、著名な 国際政治学者として現在も活躍中)

戦争が終わり解放されて、私は米軍兵士たちの靴磨きのアルバイトをしていまし た。その時に知り合った一人の兵士が、私にビザの手続きなどをしてくれたおかげ で、アメリカに留学することができたのです。

その後何年もの時が過ぎました。しかしその間ずっと私の母は、「あの二人の日 本人の外交官は、今どうしているのだろうか」と思っていました。

60年代、70年代、80年代と時は過ぎて、1992年私の母は亡くなりまし た。
そして50年経って、私はやっと助けてくれた日本人の居場所を突き止めること ができたのです。

私は神戸のロータリークラブで講演をする機会がありました。その講演の時に、 一番前の列に5人の記者たちが私の講演のノートを取っていました。

私はそこで思わずこの記者たちに、「あのプラハで私たちを助けてくれた日本人 外交官と、上海で私たちを助けてくれた外交官真鍋博士をどうか捜してほしい」と 必死で頼みました。

その講演の夜、記者の一人、増野さんという人が、私に電話をくれました。 「プラハで誰がビザを出してくれたかわかりました」という電話でした。 今日大塚館長と話をしたところ、館長はその記者の方とも(電話で)話しをした ということです。 是非大塚館長には、現在神戸新聞の論説委員となっておられる増野さんに、今日の 出来事、感動をご報告していただきたいと思います。

わたしは、「私たち一家のビザを発給してくれた外交官は誰なのでしょうか」と 聞くと、増野さんは「杉原千畝という方です。」 私は増野さんに重ねて問いました。「杉原氏はいったいどうして、なぜそのよう に、私たちを助けてくれたのでしょうか。」 増野さんは、「杉原領事はあの時代、悪に対して立ち向かった人物なのです。良心 に基づいて行動し、無実の難民達を救った人なのです。」と語ってくれました。 私は続けて聞きました。「彼はまだ生きているのでしょうか?」 ところが増野さん「1986年に亡くなりました。」と答えました。 私はとても悲しい気持ちになりました。一言でも杉原領事にお礼を伝えたかったの です。 そして続けて私は真鍋博士の事を聞きました。シベリア鉄道の車中で出会った、真鍋博士の消息をぜひ知りたいと増野さんにお願いしました。 「見つけられたとしても彼はもう90代でしょう。けれども何とか努力してみま す。」と増野さんは言ってくれました。

そして私はアメリカへ戻りました。大学に戻り講義をするために帰国いたしまし た。
私がアメリカに帰って3ヶ月後、電話が真夜中3時に鳴り響き、電話に出てみる と増野さんでした。

 「見つけました、見つけましたよ」という増野さんの声でした。
増野さんは教えてくれました。「真鍋さんは今、89才で東京郊外に静かに暮ら していらっしゃいます。

電話番号がここにありますので、電話してみたらどうですか」増野さんがそう言 ってくれました。

私は真鍋さんに電話をかけたのです。

彼は50年前、シベリア鉄道の車中で出会った時と変わらぬ、流ちょうなドイツ 語で私に話してくれました。

今日ここに、同席している私の友人は、私にこう言ってくれました。 「彼に会いに日本に行って、お礼を言うべきでしょう。急いだほうがいい。」 翌日、私のクラスの大学生たちに説明しました。 「今日実は午後、日本に飛んでいかなければならない。お礼を言いたい人がいるのだ。」生徒は皆すぐに私のことを理解してくれました。そして、「先生、行って らっしゃい。」と言ってくれました。

これはわたしの身に起こった、ホロコーストの悲しい物語でありますが、とても すばらしいハッピーエンドとなりました。

私は東京へ行き、一週間、真鍋博士と過ごしました。 この一週間は私にとって、夢のような一週間でした。

当時と変わらず真鍋博士は心のきれいな方でした。真鍋博士も私と同じように、 その時大学で(ドイツ文学)教えていらっしゃいました。

 私は今までずっと胸に秘めていた疑問を真鍋博士にぶつけました。
「なぜ私たちを助けてくれたのですか。あなたの命に危険が及んだかも知れない のに。」
「それは当然のことでしょう。」真鍋さんは言いました。

皆さん、私は4人の人物によって助けられました。この事を、ひと時も忘れた事 はありません。

一人は上海行きのビザをくれた中国の領事(何鳳山 ホウ・フェンシャン領 事)。

そして私をアメリカ留学へと導いてくれた米軍の兵士(海軍大尉 ピ-ター デ ラメーター氏)、 そして2人の日本人外交官です。(杉原千畝氏 真鍋良一氏) 彼らは悪に立ち向かった人たちでした。

私は大学でも学生に必ずこのように教えています。 「この世の中に絶対悪というものは存在しないのだ。」

どのような民族の中でも、文化の中でも、必ずそのグループの中には悪と立ち向か
い、人間の命を守ろうとする人がいるものなのです。 皆さんどうか考えてみてください。60年前日本とアメリカは敵同士だったのです。
けれども今ではこのように友好な関係を築いているわけです。 この希望の可能性というものを考えてみてください。 ここに来るほんの一時間前、御幸小学校で出会ったすばらしい子どもたちが、やはり愛と勇気について語ってくれました。そして戦争を、争いを、差別をこの世の 中からなくさなければならないということを話してくれました。

このホロコースト記念館の、大塚館長のこれまでの指導があってのことと思いま す。
皆さんこの困難な時代、今アフガニスタンでの戦争状態というものがありますけ れども、「善は必ず悪に勝つのだ」ということを皆さんに最後に訴えたいと思いま す。
 今日は本当にありがとうございました。

-大塚館長あいさつ-
6年前に日本で初めてホロコースト記念館が建てられました。そしてあと240 名で5万人の人々をお迎えすることになっています。

私たちは犠牲になった150万の子どもたちを通して、ホロコーストを、日本の 子どもたちに伝えたいというその理念に生きています。ここでは、ホロコーストの 悲惨な面ではなく、たくさんの人たち(1万8千人)が当時、危険にさらされていた ユダヤ人たちの命を助けた事実も教えております。

今日このところに2人の日本人の外交官によって助けられた、ストシンガー博士 をお迎えできたことは私たちにとり大きな名誉であります。

ホロコースト記念館は、時折ホロコーストの生還者の方に来ていただき、体験を 話していただきますが、そのすべての方々に共通していることは、「過去の事実か ら未来を見つめて居られる事、未来である、子どもたちをとても大切にしておられ る」ことです。
今日御幸小学校を訪れてくださった、ストシンガー博士や同行してくださった1 0名の方々の姿から、それをお見受けすることが出来ました。

わたしには一つの夢があります。それは、1200万人の日本の小中学生が、記 念館を訪問しホロコーストを学び、日本からいじめ、差別、偏見を無くして、世界 に平和をもたらすことです。

代表質問(大塚館長) Q:今戦争の危機にありますが、ストシンガー博士は世界的な国際政治学者であ られ、特に平和というテーマを専攻していらっしゃいます。そして10冊以上の著 作をお持ちですが、今の時点で「どうしたならば世界を変え、世界を平和にするこ とができるか。」お尋ねしたいと思います。アメリカから来られた学者として、ユ ダヤ人として、そしてホロコーストを生き延びられた方として、今の世界の現状を どのように見ておられるでしょうか。どうしたら私たちが平和を作ることができる でしょうか。

ストシンガー博士
A:このテーマについて私はこれまでとても長い間考え続けて来ました。特に今 宗教ということが世界で大きな問題となっています。そして結論に達しました。 大切なのは「あなたが何を信じるのか」ではなく、「どのように(寛容な心で)信 じているのか。」ということだと思うのです。 あなたの信仰の中に「違いを受け入れる」という寛容さが、この世の中から差別や 偏見を取り除くことが出来るでしょう。 世界のどの宗教をとっても、二つの側面が必ずあります。民主的な側面、そして非 民主的な側面です。 あなたがキリスト教徒であれ、イスラム教徒であれ、仏教徒であれ、ユダヤ教徒で あっても、、、、、、 私は心から願います。異なる宗教を持つ人たちが、他の人たちを心から受け入れ、 尊重し合うその時がくることを。 その日がくるならば、それはまさに私たちの子どもたちの夢(平和)が実現される 時となるでしょう。

大阪のアメリカ総領事館・領事クレランス ハドソン氏のあいさつ

今日皆様とこの場で共に居らせていただき、またストシンガー博士の講演を聞くこ とが出来まして本当に光栄に思います。大学生に戻った気分です。先生の話を真剣 に、学生になった気分で聞きました。 ストシンガー博士の話を聞きながら、私は手元にある、先ほど御幸小学校で行われ た「日米子ども相互協力宣言文」を読んでおりました。この世の中には、様々な違 った意見が存在しますが、この原文の中に一つの真実を見つけることが出来たよう な気がします。 歴史というものは軍隊、また国の権力によって変えられるものではなく、人間一人 個人の力によって変えることもできるのです。 子どもたちが真実、身をもって、(平和のために)行動していることは非常に大切 であります。そうでなかったら、ただ舞台に立つ俳優のようなもので、セリフどお りに動くことになってしまうでしょう。 その戦いは私たち自身の心の中にあるもので、それはどのような物より、厳しく大 切なものであると思います。それをいかに獲得していくかが大切なことだと思いま す。 今日子どもたちが宣言したとおり、そしてストシンガー博士が今日話された通り、 私たちの心の中の戦いにうち勝つようにしましょう。それは自己主義ではなく、「正しいこと、善いことを行う」ということです。 その意味で、今日の子ども宣言は意義深い事であると思います。

(お断り)上記の講演で(  )の説明は記念館の大塚が、読者の理解を助け るために加筆したものです。