2016年10月3日月曜日

チャンネル桜の3時間討論会「シン・ゴジラから見えてくる日本の現在」に対する感想

チャンネル桜の3時間討論会「シン・ゴジラから見えてくる日本の現在」に対する感想


あっというまの3時間でした。面白かった、しかし、まだ議論が足りない。時間がなかったから。残念。

社会で仕事をして痛感したことは、専門家というのは、その専門の内側の領域しか知らないといことです。弁護士、国際国内の公認会計士、弁理士等々。

この場のみなさんもそれぞれに大変優れた業績をあげていらっしゃる方々ばかりで、全く素晴らしいけれども、しかし、内側に入ってしまふのだな。

何故、パロディーだとか(本来の意味は佐藤さんがいうようにそんな軽い意味ではない)、自閉の世界だとかと、あれこれいうのだろうか。あれこれは議論だから楽しいし、意義も意味もあったとおもますけれども。

言語の世界からこの世の生きた人間の言葉を見ると、そのひとが対象について語ることは、実はそのひと自身のことを語っていると考えて、全く間違っていないのです。藤井聡さんも小説オタクだったのですね。藤井さんもその危険性に気づいて、小説という対象の外に出た。でも、そうであれば、また内側に入って、また出て、出たり入ったりしたらいいじゃないか。どちらか一方に、二つに分けてしまふというこの、分裂を、裂け目をそのままに固定化したいということが、敗戦後の日本人の致命的な思考欠陥です。

だから役割交換(role reversal)の君の名や、同じ役割交換のシン・ゴジラが受けているのではないのか?これは文化人類学の用語でもあります。

みなさんは俗にいうインテリだから、庶民の心、心情、理屈がわかってゐないのではありませんか?これも厳しい批評でせうか?なぜなら無名の庶民は毎日日常の時間の中で、それこそ藤井さんが最後の最後に、よくぞ言った、実存を生きているからです。つまり、志を持ってその現存在、Das Daseinを生きているからです。実存という言葉があそこで出る藤井さんという方は、やはり哲学を学んだのですね。学者に必要なのは哲学だと、私は思います。

この場では、言葉の少なかった人ほど、素晴らしかった。特にあの環境庁の女性の役に扮した木坂さん。だって化粧し役者になって出てくるのですから、あの場が舞台だと思っていて、それもパロデイーにしてゐる。これこそ笑いのありユーモアもある(みなさん笑っていましたね)二重の高等なパロディーです。パロディーのもたらす効果は、笑いとユーモアです。あの場で木下さんの意匠と仮装を全員が笑っていたように。

あと、西村さん。最後に西村さんが発言していた、映画はフィクションで虚構だというこのことが、あの場でもっと議論できなかったのは残念。みなさん現実と結びつけ過ぎです。しかし、まあ、時間がなかったのが惜しかった。この議論は尽きないでせう。人間が作品を創造することの本質論になるから。それこそ哲学に依る議論が必要ですね。

楽しい3時間でした。感謝申し上げます。


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