2016年10月12日水曜日

映画『君の名は。』を読む

映画『君の名は。』を読む

今映画館より戻って、恰も未だ彗星の落下して余燼さめやらぬ糸守という時間の無い神話の土地にゐて、この文章を書いてゐるやうな気持ちがする。

もう一つの映画『シン・ゴジラ』と何か私たち日本人の意識の下で同期してゐる他方の映画が、『君の名は。』であると、最後まで映画を観て思つた。

最後まで見るとよくわかりますが、この映画は、丁度『シン・ゴジラ』が 、現在から見て未来の時間、即ち2027年完成予定の現時点で存在しないビルを丸の内のを現在の時間の中に置いてシン・ゴジラに破壊をさせてゐるのと同様に、2021年の東京と、その8年前(といえば、映画発表の時間よりも前に起きた)衛星の糸守町落下による500名死亡の時間とを現在の時間に於いて交換して、その世界を今創造してゐるのです。
映画シン・ゴジラを読むhttps://word-eyes.blogspot.jp/2016/09/blog-post.html

つまり、二つの映画は共に、過去と未来の時間を、現在に於いて交換することによって、無時間の空間を創造して、そこでそれぞれの主人公の物語が紡がれてゐるのです。

従い、そこに立つシン・ゴジラは彫像のやうに時間の外に立って不動であり、『君の名は。』の二人の永遠にお互いを求め続けてゐる若い一組の男女もまた、同じ現在の東京に於いて、しかし無時間の神話の世界の中で、あの坂道の階段を歩いて一度すれ違いながら、若者はその上で、乙女はその下の方で互いに振り返ってお互いに遂に永遠に不動のままに出会うことができたのです。

私は映画『シン・ゴジラ』を読む」で、映画『シン・ゴジラ』と『君の名は。』の共通性と題して、次のように書きました。

role reversal(役割交換)といふ視点から見れば、この二つの映画は同じ主題を扱ってゐます。

それが、role reversal(役割交換)であり、ともに私たち人類の、多神教の世界に棲む古代ギリシャ人はこれをlogos(ロゴス)といひましたが、その深い転生輪廻の意識に関わる論理から生まれた作品だといふ事です。ヒンズー教も仏教の思想もそれから生まれ、釈迦も此の論をなした。私たちは、21世紀の今Cool Japanの一部として此ををなしてゐる。

二つ目の共通する主題は、映画の多義的な解釈をゆるす此のrole reversal(役割交換)です。【註1】

実際に『君の名は。』では、滝くんと相手の乙女に呼ばれる若者と、三葉と滝くんに呼ばれる乙女が、役割を交換して、それぞれの体の中への転移をします。それも彗星衝突による大爆発の始めと終わりの間の時間に於いてのみであるのですが、しかし岩倉といふ乙女の家の神社の御本尊の岩倉の力を借りて、そうして此の岩倉の大石の存在する神聖な場所は、周囲を水または川で囲まれた死の領域にあるわけですが、その神聖なる岩倉の力を借りて、また此の御本尊の岩の中に三葉が奉納した口噛み酒を自分の意志で三葉にどうしても会うために一献飲んだことによって、謂わば神威によって、二人は再び出会うことができて、8年前の彗星衝突の大事故の時間と2012年の未来の時間が其の神聖なる場所で交換されて、他方、観客が現在映画を観る現在の時間の中で其の2012年という未来の時間を現在の時間のこととして虚構の真実の中に見る、そのような現在の二人の再会を目の当たりに、映画の最後に観客は、することになります。

物語の此の神話的構造化の素晴らしさは、この出会いが一回限りなのではなく、無時間の神話的な世界での出会いでありますから、永劫に回帰を、転生輪廻を繰り返す、そのような出会いであり得ているということです。最後の坂の階段上での垂直方向での二人の出会いは、そのことを示しております。

交換は時間ばかりではありません。以下、私の気づいた交換を列挙して見ませう。

1。都会と田舎
2。男と女
3。現実と夢
4。記憶と忘却
5。覚醒と睡眠


これらは互いの差異の交換と言い換えることができます。交換とは、商業的な世界でも通俗的にさうであるように、余剰という富を生み出します。

物語の此の富を生み出し、差異を一つに纏めるのが、乙女の祖母の語る神様の話で、即ち結びと換称で呼ばれる神様です。この神様は、乙女の祖母に寄れば、時間を逆流させ、曲げ、捻り、二つの時間を結ぶことができます。

この神様の御神体が、宮水神社の御本尊である岩倉です。その場所は水または川を渡ったあの世であり、こちらはこの世です。

そうして、二人は、これもやはり古語で言われる夕方、即ち彼は誰時(カワタレドキ)に出会うのです。彼は誰時(カワタレドキ)とは、昼と夜の間、その差異に存在する時差であり、時間の隙間です。

そうすれば、上の交換の表に、更に、

6。昼と夜

を付け加えることができませうし、更に、この差異の、隙間の時間は、二人が生死を共有する時間でもありますから、

7。生と死

を加え、更に、

8。この世とあの世

を、御本尊の岩倉の場所を思い出して、追記することができませう。と、してみれば、更に、

9。現代感覚と古代感覚
10。科学と古代
11。彗星と地球
12。天変地異と、終末にはならない世界

といった交換の名前を挙げることができませう。

日常的な時間のある世界の中での此の交換が生まれる契機として、この映画の作家は、敷居の上を扉や障子や電車のドアを何度も事ある毎に滑らせて、交換の下地とし、その予告としてをります。この敷居の登場する回数を数えると、あなたは映画全体を章節に分けて、映画の成り立ちと仕組みを知ることができるでせう。

また、三葉が東京に滝くんといふ男子を探してに来て、東京の電車の中で其の男子を探して見つけて側に寄って立つ四ツ谷駅に至る前に、その駅の手前のトンネルを電車が抜けてから、そうなることにやはり深い意味があると思われます。トンネルは、二つの別の世界を接続する働きをするからです。

さて、こうしてみますと、最後にもう一つ交換の名前を挙げることができます。それは、

13。時間と空間

です。

最後の最後に物語は進んで、次の交換がなされることになります。

14。「お前は誰だ?」と「君の名は。」

上の14の前者の問いは、映画の冒頭に、男女の魂の交換が起きてから(本当は交感と書いても良い位ですが)、極く最初のところに若者が乙女のノートに書き、後者は前者に同じ書き付をしてお返しをするわけですが、この「お前は誰だ?」といふ問いに対する答えは、最後に「君の名は。」と、坂の上下で二人が無言のうちに、沈黙のうちに答えるところで、映画と共に、終わっています。

これが「君の名は。」とあって、「君の名は?」ではなく、「。」でperiodが打たれてゐるのは、既にして無時間の中の神話的な世界で答えが明らかだからであり、疑問文なのではもはやなく、既にして確定した、疑問の余地のない肯定形の平叙文であるからです。

この結末の坂の階段での二人の男女の出会いの情景は、1953年 制作された松竹映画「君の名は」で、1945年5月東京大空襲の夜、焼夷弾が降り注ぐ中、たまたま出会って共に戦火の中を逃げ惑って知り合った氏家真知子と後宮春樹 の物語、即ち敗戦後の日本人が共有した物語が終わりを告げ、お互いの名を問ふことの要なく、行き違うことの要なく、上述の世界に「既にして」出会ってゐた二人であるが故に、「君の名は」ではなく、「君の名は。」として、この70年の時間もまた終焉を迎えたのだといふ、私たち日本人の明瞭な意識を日常感覚のままに示しています。そうでなければ、短日時の膨大な量の観客が脚を映画館に運ぶことはなかったでありませう。

映画の観客は若い男女多いという記事を見ますと、この二人の生み出す余剰の、富の、豊饒の物語に、若者たちが古代感覚と神事の感覚、また祭祀の感覚を感じ、これが蘇生した、いや此の感覚は眠っていただけでありませうから、覚醒したのだといふことを、私は感ぜずにはゐゐられません。

この神様を結びと呼び、またあの2011年3月11日の大地震・大津波以来、私たちの共有してきた絆(きづな)といふ言葉に此の神様の名前が通じてゐる以上、この神はまた、三葉の祖母のいふ通りに、70年の時間を逆流させ、曲げ、捻ることが楽々とできる神様のです。いや、このことを既にして自覚してゐる私たち日本人もまた同じ力を有してゐるといふ事なのです。

勿論、結びの神とは縁結びの神でもありますから、観劇した若い男女を結びつけることになる、ひょっとしたら此の映画は縁結びの神さまといふ事で、密かに若者に人気を博してゐるのかも知れないと思ふほどです。

最後に歌われる主題歌が、退出する観客へ、時の隠れんぼはもう終わった、時のはぐれっ子を演ずることはもう終わりだと、そう告げてゐます。もうそんなことは嫌だ、と。

『シン・ゴジラ』であるならば、海の底に沈んでゐた海神(わたつみ)が、第4形態となっって東京に上陸することを意味してゐることでせう。

これら二つの日本映画が海外でどのような世評を得るか、誠に興味深いものがあります。

【註1】
Role reversal(役割交感)とは文化人類学用語でもあり、このような役割の交換を、人類学の用語で、communitas(コムニタス)と呼びます。これは、人類学者の観察によれば、社会が流動化して、大きな変化を経験しているときに生まれる儀礼である(これも儀礼になりえる)と説明されています。Hatena Keywordから引用します(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%E0%A5%CB%A5%BF%A5%B9):

「【communitas】スコットランドの文化人類学者ターナー(Victor Turner, 1920-83)が提唱した概念。
通過儀礼(イニシエーション)の中での人間関係のあり方を意味する。
身分、地位、財産、男女の性別や階級組織の次元など、構造ないし社会構造の次元を超えた、あるいは棄てた反構造の次元における自由で平等な実存的人間の相互関係の在り方と定義されている。」

【註2】
本論の姉妹編映画『シン・ゴジラ』を読む」より、君の名は。が『シン・ゴジラ』と共有する(西洋の哲学用語でいう)超越論、即ち汎神論的存在論について述べた箇所を、少ない記述ではありますが、引用します:

間違ひなく、この監督の至つた此の思考形態、即ちヨーロッパ人が哲学の領域でいふ超越論(独: Transzendentalphilosophie, 英: transcendental philosophy)が、これからの日本人に深い影響を及ぼすでせう、いや既に、観客動員数としてみれば明らかなやうに、及ぼしてゐるわけです。

【註3】
もし文明論的に、文明史論的に、これら二つの映画を並べて纏めると、一神教であるキリスト教から生まれた近代といふ時間の資本主義や民主主義という白人種の生み出した制度を、多神教の、八百万の神々の世界に生きる日本人が、その映画史上の発生史の二つの類型(タイプ)の映画、即ち演劇的な映画とアニメーション映画の二つを同時に製作して、共にそれらを(西洋哲学の言葉で言えば)汎神論的存在論として製作し、一神教の文明と文化を超えた世界を、また従い古代的な多神教の感覚と論理を、つまり終末をではなく、永劫回帰と転生輪廻を、永遠の繰り返しの世界を、その民族の歴史と伝統を真っ直ぐに受け継いで素直に、そのまま映像化した、そのような二つの映画を、日本の映画界は同時に製作したということになります。

とすれば、最後の最後に、次の差異を。

15。一神教と多神教

いや、もう一つ。

16。「君の名は」と「君の名は。」

      1945年の「君の名は」
2016年の「君の名は。」





2016年10月11日火曜日

たじり しげみ著「しあわせの『コツ』」を読む

たじり しげみ著「しあわせの『コツ』」を読む




同著を作者よりご恵送戴きましたので、お礼というにはささやかでありますが、私の感想を此処に掲示して、その素晴らしさがどこにあるのかを、これから本を手に取る読者に、そしてその読者が年少の読者であればあるほどに尚、お伝えしたいと思いましたので、筆を執った次第です。

私はこの本を一読して、次の二人の人間を思い出しました。

一人は、勿論安部公房であり、もう一人はルネ・デカルトです。

何故ならば、この本は一体何かと言えば、これは誰でもの人のための人生の模型と其の設計図を提示しているからなのです。

安部公房の例を挙げましょう。安部公房は、1944年11月21日に『〈没落の書〉』と題する、これから自分の生きる20世紀を前世紀からの歴史の継承と其の超克といふ観点から如何に生きるべきかを、二十歳の青年として、次のように書いております。

「私は唯一の解決者たる宿命を拒みはしない。私は自分が他愛の義務を、自分の詩魂の内に感ずる事を人々の為に祝福する。私は総てを展開しよう。だが常に注意し給え。解決は言葉の最後にのみ与えられるものではない。君達は画き出す人でなければならぬ。私は単に暗示者だ。絵具と構図は君達にまかせる。私はモデルを象徴しよう。」(安部公房全集第1巻、141ページ、上段。下線部は評者による。)

安部公房のすべての作品はいづれも、ジャンルを問わず、この精神に基づいて書かれております。

安部公房はモデルを提示し、私たち読者は実に自由に自分の読み方をして、構図を描き、好きな色の絵の具を使って、誰にも書くことのできない一回限りの、自分の人生の絵を描く。これが、安部公房の読者の、謂わば、特権と言って良い有り難さです。他の作家には、このような意志と意図はないように思います。

もう一人は、17世紀のフランスのバロックの哲学者、歴史に名の高いデカルトです。

『方法序説』に次の言葉があります。

「私の計画は、私自身の考えを改革しようとつとめ、まったく私だけのものである土地の上に家を建てようとすること以上におよんだことはけっしてない。私のやったことが私には十分満足すべきものであって、ここにその模型を読者に示すとしても、だからといってそれに倣うことを人にすすめようとするつもりなのではない。神の恩寵をさらに豊かにめぐまれた人ならば、たぶんもっと高い計画をいだくことであろう。」(中央公論社「世界の名著22 デカルト」174ページ。下線部は評者による。)

このように模型を示してくれる大人を発見すること、これが子供の理想の、自分の人生の設計図を書くために必要なことなのであり、そのような模型の設計者としての大人なのであり、また同時に自分自身がそのような模型と設計図を提示できる大人となることが、子供にとっては、自分自身の人間としての、楽なだけではない人生を生きるための、理想の姿なのではないでしょうか。

そのための本が、この「しあわせの『コツ』」だと、私は思います。

この本の中の言葉は、「あとがき」によれば「当時専業主婦だった私」が「文字通り起きてから寝るまで家事と育児に明け暮れていて」「ある日のこと、食卓を片付けていたら」その最初の一行が「突然頭に浮かんできた」とのことです。そうして、20分で食卓の上で「忘れないように私は急いでそばにあった新聞の折込チラシの裏側に書き留め」た、これは詩です。

最初の題名は、『しあわせの『コツ』第一章』であったとのことです。

安部公房は、上の引用した同じ二十歳の年に書いたもう一つの重要な論文『詩と詩人(意識と無意識)』に同じ思想を次のように書いております。

「解釈学的体験、― 次の数行の余白はその無言の言葉で埋められるのだ。(私は君達の自己体験をねがう為に此の余白を用意したのだ)
   ………………………………………………       
     ………………………………………………
           …………………………………………         」
(同全集第1巻、112ページ、下段)

そうしてこの5ページ後に、単に第二章第二節に「二」とだけ次節の数字の文字を書き付けて、さあ、あとは君たちが自分の言葉で、自分の人生をどう生きるつもりなのか、この先を書いてくれと、そうその思いを伝えております。

もし贅沢な苦情を此の素晴らしい全33ページの本に申し立てることを著者がゆるしてくれるならば、「あとがき」にお書きになっているように、そうしてそうなさったかも知れないように、第一章を題名に残して、そうして第二章という章を立てて、二十歳の安部公房がそうしたように、そのページの本文を余白として、幼い読者に示して下さるとありがたいかもしれないと思いました。

その読者は、その余白の白を一生忘れないことでしょうから。そうであれば、何度でも自分に固有の人生をやり直すことができると既にして、無意識に確信していることでしょうから。

最後に、著者が読者に提示している16行の文からなる模型と設計図の最初の二つの行は、次のように簡潔明瞭なものです。

「きみが だれかのために 尽くすとき」
「きみの ちからは 千倍になる」

このあとの14行は、書店で手にとってお読みになって下さい。きっと著者もまた、その事を願っているのではないでしょうか。







2016年10月3日月曜日

チャンネル桜の3時間討論会「シン・ゴジラから見えてくる日本の現在」に対する感想

チャンネル桜の3時間討論会「シン・ゴジラから見えてくる日本の現在」に対する感想


あっというまの3時間でした。面白かった、しかし、まだ議論が足りない。時間がなかったから。残念。

社会で仕事をして痛感したことは、専門家というのは、その専門の内側の領域しか知らないといことです。弁護士、国際国内の公認会計士、弁理士等々。

この場のみなさんもそれぞれに大変優れた業績をあげていらっしゃる方々ばかりで、全く素晴らしいけれども、しかし、内側に入ってしまふのだな。

何故、パロディーだとか(本来の意味は佐藤さんがいうようにそんな軽い意味ではない)、自閉の世界だとかと、あれこれいうのだろうか。あれこれは議論だから楽しいし、意義も意味もあったとおもますけれども。

言語の世界からこの世の生きた人間の言葉を見ると、そのひとが対象について語ることは、実はそのひと自身のことを語っていると考えて、全く間違っていないのです。藤井聡さんも小説オタクだったのですね。藤井さんもその危険性に気づいて、小説という対象の外に出た。でも、そうであれば、また内側に入って、また出て、出たり入ったりしたらいいじゃないか。どちらか一方に、二つに分けてしまふというこの、分裂を、裂け目をそのままに固定化したいということが、敗戦後の日本人の致命的な思考欠陥です。

だから役割交換(role reversal)の君の名や、同じ役割交換のシン・ゴジラが受けているのではないのか?これは文化人類学の用語でもあります。

みなさんは俗にいうインテリだから、庶民の心、心情、理屈がわかってゐないのではありませんか?これも厳しい批評でせうか?なぜなら無名の庶民は毎日日常の時間の中で、それこそ藤井さんが最後の最後に、よくぞ言った、実存を生きているからです。つまり、志を持ってその現存在、Das Daseinを生きているからです。実存という言葉があそこで出る藤井さんという方は、やはり哲学を学んだのですね。学者に必要なのは哲学だと、私は思います。

この場では、言葉の少なかった人ほど、素晴らしかった。特にあの環境庁の女性の役に扮した木坂さん。だって化粧し役者になって出てくるのですから、あの場が舞台だと思っていて、それもパロデイーにしてゐる。これこそ笑いのありユーモアもある(みなさん笑っていましたね)二重の高等なパロディーです。パロディーのもたらす効果は、笑いとユーモアです。あの場で木下さんの意匠と仮装を全員が笑っていたように。

あと、西村さん。最後に西村さんが発言していた、映画はフィクションで虚構だというこのことが、あの場でもっと議論できなかったのは残念。みなさん現実と結びつけ過ぎです。しかし、まあ、時間がなかったのが惜しかった。この議論は尽きないでせう。人間が作品を創造することの本質論になるから。それこそ哲学に依る議論が必要ですね。

楽しい3時間でした。感謝申し上げます。