2016年12月10日土曜日

ユーラシア大陸の東と西で何が今起きてゐるのか?

ユーラシア大陸の東と西で何が今起きてゐるのか?

今、ある文章を読んで、ふと思つたのだが、中華人民共和国といふ中華思想とマルクス主義を体現した中国共産党の支配する国の貨幣価値の崩壊は、ヨーロッパ白人種による此の500年の近代といふ時代が生み出したグローバリズムの終焉を最後に人類に示すことなのだな。

この事は、今ヨーロッパで起きてゐる移民・難民問題が500年かけて巡り巡って地球を一周して自分自身に戻つ来てゐる(お釈迦様なら因果応報といふだらう)現実と密接に深い関係があるな。

地球のユーラシア大陸の東と西で同じ事件が起きてゐるといふ事になります。

かうして考へて見ると、イギリスがヨーロッパではないやうに(ヨーロッパ大陸又は大陸ヨーロッパに帰属しないといふ意味ですし、これが歴史的・伝統的・地政学的にイギリスがEUから離脱した一番の理由だと私は考へる)、実は、日本もアジアではないのです。

脱亜論なども近頃では論ぜられてをりますが、そもそも脱する必要はなく、既に、最初から、そもそも、日本は日本であつたし、ある、といふ事が判ります。

この考へから/で、我が国を論じては、みなさん、如何か。


それでは、何をどうやつて論じるのか。即ち、大陸をではなく、海洋を主体にものを考へるといふ事です。即ち、海と島で地球を眺めるといふ事です。大陸の人間が、海洋と島の歴史と伝統を学ぶといふ事です。その中に、縄文時代も弥生時代もあるだらうといふ事です。全く従来とは異質な世界が眼前に開かれるのではないでせうか。

日本は、もともと再帰的な(recursive)な国だつた、日本人はそもそも再帰的な民族だった、日本人はそもそも再帰的に思考する人間だった、即ち八百万の、白人種のキリスト教の言葉でいへば、多神教の国であつたといふことです。外に敢へて、規範を求める必要の、そもそも無い国であるといふことです。

このやうに考えると、結果として、鎖国するでもなく、尊王攘夷でもなく、無条件にむやみやたらに(今時のやうなだらしのない)開国するのでもなく、日本人の美意識に則つた古来からの第三の道を私たちは行く事ができるのでは無いか?


これは、方便ではありません。

2016年12月1日木曜日

再びIntelligenceが求められる21世紀の冷戦

再びIntelligenceが求められる21世紀の冷戦

西村さま、

昨日の貴君とのジョルジュ・バタイユ談義の続きです。

今朝の此の時間に二人のやり取りのジョルジュ・バタイユ談義にアクセスした数は、324でしたので、この数字はunique numberですから、このアクセス数は、結局324人といふことになります。

貴君の読者15万人の1%は1500人。325/150000x100=0。22%。

日本人で哲学を学ばうといふ人間の数は極めて少ないので、貴君の設定した1%は、良い数字です。私も社員教育をして、社内募集をして30人を超えて始まった月一度の哲学の教育機会に、1年が終わる最後の日に出席して残つた人数は、2人でしたから。この場合は、6%で、私は大成功だと思ひました。この二人のその後については知りませんが、しかし、さうではない人間たちと比べて、人生が大きく変はつたことでせう。勿論、それが哲学を学んだせいだとは決して気づかないわけですけれど。

考へてみれば、intelligenceとふ英語の此の言葉の意味は、最高機密に触れて、その意味、即ち暗号を、即ち目明か・目明きであるのにも関わらず、同時に、暗い符号・記号・画号といふ(普通の人間の目には明らかではない)目暗らの情報(この情報はinformation)を解読する能力を有する者といふ意味なのだなと、さつき別のことを考へてゐて思ひました。

つまり、intelligenceとは暗号解読能力のことなのですね。だつて、これは私たち人類の持つてゐる能力そのものですよ。『ダヴィンチ・コード』のラングドン教授みたいに、私が安部公房や三島由紀夫や村上春樹の暗号を解読したみたいに。(別に自慢していつてゐるのではありません。)

と、してみると、日本の教育は愚民教育だな。

更に低学年から英語を入れるとは、何たる阿呆どもか、今の政治家と行政府の役人どもは。Intelligence、即ち暗号解読能力は、自国の古典(これが暗号そのもの!)を読む能力を養わずに、個人のintelligenceも国家の(組織的な)intelligenceも育つわけがないではないか。勿論、その教育も含めて。

旧帝国大学の、文字の通りに最高学府東京大学といふ此の末裔の大学の試験に、このcodeをdecodingせよといふ設問一つにして、別にわざわざ会場に来なくても良いから、自宅で何日以内に解読して何月何日何時必着として、メールにpass wordを掛けて(これも暗号化!)、資料は何を選んでも(但し根拠として典拠は明示すること)図書館にいつて調べても良い、むしろこの調査・探究といふ未知のものへの探査能力を見るのが眼目といふことにするわけです。土星へ向かつたボイジャーみたいに。

日本語ができないで暗号解読能力、即ちintelligenceが欠落して、言語を「駆使する」ことなど不可能、大人になつてから仕事ができるわけがねえだらうと、まあ、西村殿、言いたくなるのです。

でも、0。2%、この数字は凄い数字ですよ。何故なら、どの領域の統計も見ても此のパーセントは有意義ですから。

この人たちの年齢構成を知りたいけれど、多分今の日本の庶民の中に無名で隠れてゐるデカルトみたいな人たちだな、この人たちは、きつと。デカルトの座右の銘ふたつの内の一つは「よく隠れた者こそ、よく生きた者である」(bene vixit, bene qui latuit)といふのです。この0。2%で、今の日本の国は密かに保(も)つてゐる。勿論有名になつて(貴君みたいに)表舞台で活躍してゐる人たちも含めてですけれど。つまり、心根(こころね)のことがいひたい。でも、表舞台にゐる人たちが、このintelligenceといふ能力を密かに(密かにだよ)持つてゐることを、目暗らの人たちは知らない。

といふことは、20世紀の後半に、インターネットの登場する前後から流行して(今もさうで)ある、俗にいふ高度情報社会の興隆期に言われたinformationといふ言葉は、情報処理能力が要求されてゐたからだといふことが判りますね。だつて既成・既存の(国家から要求される)能力は、既に与へられた情報(information)の範囲で既知のことを処理する能力(intelligence)だつたといふことだから。だから、informationがintelligenceの優位に立つて、世界中に流布したのですね。

その情報は、コンピューターが計算して提供してくれる。しかし電子計算機にintelligenceは、ない。つまり計算処理能力だけの話の中での電子計算機だつた。だから、単位時間あたりの量的処理能力だけを人間は問題にしてコンピューターを設計開発して来た。

しかし、やつと、時代がまた元に戻つた。つまり冷戦時代の物語の主人公007のやうなintelligence(諜報)の物語を位相を変えて変形し、次元を一つ上げた物語が大当たりになる時代が来たといふことです。即ち、暗号を解読する物語の時代だといふことです。

といふ風に考へてくると、今人間に求められてゐる能力がとてもよく判りますね。国際政治も、国内政治も、国内外の経済のことでも、AIの飛躍的進展の理由も、といふよりも、AI(といふ此の外在化した私たちの脳)の自律的飛躍・飛翔から観える近未来の世界像のこと等々も。

情報時代、information時代の終わり、そして知識・諜報時代、暗号解読時代 、intelligence時代の始まり(もう既に始まつてゐる)。知識とは、体系化されたものですから勿論贅語ですが、しかし、体系的知識といふ意味です。後者は私の上の言葉でいへば、探査時代の始まり、調査・諜報時代の始まり、暗号解読時代の始まり。といふことは、何だ、何といふことはない、

再(ま)た、冷戦時代に戻つた

といふことになるではないか。

今度の冷戦は一つ上の次元の冷戦ですね。新冷戦時代。今度は、どこの国とどこの国のCold Warであるのか?

としてみれば、日本がCool Japanと白人種に呼ばれてゐて世界に広まつた、それも汎神論的キャラクターや映画や(日本語の小説に汎神論的な小説はありやなしや?あるとすれば、絶滅危惧種「純文学」ではなく)SFといふ日本民族産の文物が、紅毛人にとつてcoolだとといふことですね。最近の映画『シン・ゴジラ』も『君の名は。』も然り。前者は老若男女が、後者は若者たちが熱心なのは、やはり「ヤマト」民族の暗号を解きたいといふこと(松本零士の「宇宙戦艦ヤマト」も此の一環であり此の 先蹤せんしょう))、古典を神話を読みたいといふことを示してゐます。今の教育は、この社会的な欲求から言つても、阿呆教育、愚民教育です。一体私たちは誰のために生きてゐるだ?日本国民はキリスト教徒ではない。

この文脈の中にある私たちにとつて、日本がcoolであるとは、八百万の神と一緒に毎日暮らしてゐるといふこと、当たり前のことです。英語のcoolといふことから、もつと厳しい冷たさであり寒さであるcoldといふ英語があることを考へてみる、

と、このやうに考へて来ると、Cold Warとは、国家間の対立も含み、21世紀の今は、人間間の対立をいふことも十分に意味してゐるのではないだらうか。つまり、Globalism対Nationalismも、その一環の地球的な動きなのではないだらうか、と、まあ、ここから先は貴君の領分なので、お任せします。

Globalistは、information(情報)を処理して(今大流行中の政治・経済の、「増すゴミ」(由緒正しき名前は"mass communication")メディアによるデマゴーグもこれに入る)世界を支配したいといふ輩、ただただ資本主義の原理に倣つて金を儲けるために、金儲けが自己目的と化した輩。対してnationalistは、intelligenceを駆使して、近代の、白人種以外の地球上のすべての民族にとつての相変わらずの不変のテーマ、即ち民族の真の独立を図りたいと願ふ当然の人間たち。

といふことからいつても、やはり日本語の教育に力を注ぐべきは、古典教育、即ちまづ日本の神話を読ませること、古事記、万葉集、伊勢物語、大和物語、源氏物語、それから漢文と素読。即ち大政奉還から此の150年に及ばうとする(たつた150年!)日本の近代国家を可能ならしめた江戸時代の日本人の教育に戻ることといふことになるではないか。この江戸時代の日本人の深い教養の蓄積の上に、今の日本の国がある。(松尾芭蕉の俳諧は此の教養の上にあつて素晴らしい。)これを貴君に、今執筆を予定してゐる著作の中で是非論じてもらひたい。

先の敗戦後の阿呆政治家、阿呆官僚どもが此の教育を放擲して来たから(しかし、これはまた阿呆日本人どもの罪である。何故なら「戦後」民主主義の国であるから。以後「敗戦後」民主主義と呼ぶがいい)、若者たちは、古くはウルトラマンや仮面ライダーに、新しくはガンダムやエヴァンゲリオンに、これら英雄の物語に惹かれてゐる。おまけに、同じ原因でオウム真理教といふカルトまで出て来て国家転覆を図ることに至つた。テロリズムを、知らず知らずのうちに、日本の内国教育が産み育ててゐる。阿呆国家ニッポンである。と、段々語調が激しくなつて来たので、ここいらで止めます。

貴君に向かつて書くと、いろいろなことを、かうして考へて、新発見がいつも一杯あるなあ。ありがたう。

では、また、書きます。

その後のアクセス数の数字の推移はまた連絡します。今までの経験から見ますと、大体三日が目処ですね。0。3%に近づいたら大成功です。

本件ご返信ご無用。忙しき貴君なればなり。


岩田

追伸

日本の庶民が、「敗戦後」民主主義の時代に、(今や死語である)インテリなどと略称して呼んだのは、正解でしたね。これ庶民の知恵なり。何故なら、intelligenceが欠けてゐるから。次のinformationの定義がネットにあり。

「インテリまたはその原語であるインテリゲンチャ(ロシア語: интеллигенция、Intelligentsia、インテリゲーンツィヤ)とは、知識階級を指す言葉。なおそのような立場にある個人を知識人ともいう。対比語の多くは大衆(民衆)。」(vhttps://ja.wikipedia.org/wiki/インテリ)

この語源を読み解いても、その当人にintelligenceのあることの証明にはならないことを註記します。



2016年11月29日火曜日

西村幸祐氏との往復書簡1:ジョルジュ・バタイユについて

西村幸祐氏との往復書簡1:ジョルジュ・バタイユについて

岩田様

どうもありがとう。

村上論も拝読します。村上春樹に関しては、僕は『幻の黄金時代』で半分肯定・半分否定で取り上げた。「1973年のピンボール」は読んでいないので、いつか読んでみる。

ツイッターにバタイユの言葉をUPするアカウントがあって、こんなことを言っているので、

「私達は歴史の中でしか存在[=生成としての動き]を捉えることができない。つまり、変化の中で、ある状態から他の状態への移行の中でしか捉えられないのであって、別個に次々に眺められた状態の中では無理なのだ。-エロティシズ-」

僕はこんなコメントを残しました。

「つまり実存はSein(ザイン・存在)とZeit(ツァイト・時間)の積だ。ハイデッガーに於ける〈現存在〉をバタイユはここで再定義したかったのだろう。しかも「時間」を〈歴史〉と言うことでバタイユの存在論はハイデッガーよりアナログになった。エロティシズムの本質はアナログなのかも知れない」

****

西村様、

バタイユや貴君のコメントをありがたう。

1。キリスト教と哲学
この年齢になって、やっとヨーロッパのキリスト教といふ一神教、唯一絶対のGodしか存在しないといふ論理から白人種が逃れるために生んだのが哲学といふ学問であり、言語科学であること、その上に物理学その他のいはゆる科学が生まれたことを明解単純に知るに到りました。

2。バロックの時代
それが、パスカル、デカルト、モンテーニュ、ライプニッツ、ニユートン等々のヨーロッパの17世紀の哲学者や数学者を兼ねる人間たちです。

このバロックの眼で見ますと、このバタイユ専門のtwitterにあるジョルジュ・バタイユの次の言葉:

「ジョルジュ・バタイユ ‏@G_Bataille_jp 2時間 2時間前
[超キリスト教的な]世界観に従えば、神から離れ、落ち来たるものは、もはや人間ではない。神自身(或いは全体性と言っても良い)だ。この見方において神は、神概念と同程度のものを内包している。いやむしろより多くを内包している。ただしこの「より多く」は神そのものである故に自分を無化する。」

といふ言葉は、やはりキリスト教の範囲を出ない。この思考論理では、最初から限界があります。しかしどこを志向してゐるかは、白人種の論理としてよくわかります。

Godといふ絶対的な存在が、自分自身に再帰(recursive)すべきだとバタイユは言ってゐるのです。この志は正しい。しかし、内包してゐると言ってしまふと、元の黙阿弥になってしまふ。

キリスト教のGodは、唯一絶対のGodですから、バタイユの論理になってしまふ。バタイユの思ひはさうではないのに、その論理の外に出たいと願ってゐるのに、です。

ここにキリスト教徒の(神学から来た)思考論理上の限界があります。上にあげた17世紀のバロックの哲学者たちは、これに対して汎神論的存在論です。(これはこのまま安部公房の世界なのですが、委細後日。)

ヨーロッパ人は、今こそ自分たちのバロック時代を想起すべきです。去年ドイツからバロック様式の建築の本を取り寄せて読み、最後のあとがきを見て愕然としましたが、このドイツ人のprofessorは、バロックといふ概念はあまりに多岐にわたり、定義することができないと、そのあとがきの冒頭に書いてゐるのです。今のヨーロッパ人は、バロックといふ概念を忘れてゐるのです、定義もできないといふひどい状態にある。勿論、この本の内容は良いものでした、しかし、それなのに、目の前に日常にバロック様式の建築物があるのにもかかはらず、さうだといふ現状は余りにひどいと思ひました。

大体キリスト教徒たる白人種の哲学者たちが、古代ギリシャのソクラテスを祖と仰ぐといふことが自己撞着です。何故ならば、古代ギリシャは多神教の世界だから。

今こそ白人種のヨーロッパ文明は、あの17世紀のバロック時代の精神を思ひ出すべきときなのです。さうすると世界中の多神教の諸民族(これが地球上の宗教の大多数だらう)とやっと話ができるやうになる。

キリスト教の正統派は、アリストテレスの論理学を、異端とされる人たちは、プラトンの哲学を選択したことも、やはり意義深いものがあります。後者はイデア論ですから、汎神論的存在論、前者はGodを主語に立てたら、この主語は唯一絶対で、あとは全て述語部に収まるといふ唯一絶対神の考へかたです。

後者は、主語と述語の関係は絶対的に固定して決して動かない。つまり言語論理の、思考論理の最初から持ってゐる再帰性(recursiveness)、即ち自己に回帰するといふ論理を禁じてゐるのです。これが言語からみた(安部公房の世界から見た)キリスト教の思考の限界です。それで、この500年を自分たちで大航海時代と呼びながら、私の言葉でいへば大虐殺時代の500年になったのは、この人類のそもそも持ってゐる本来の普遍的な思考論理を絶対的に、唯一神の名のもとに否定して来たからです。

長くなるといけないので一言でいへば、17世紀の哲学者は、唯一絶対のGodの存在を疑ったのですね。でもそれらの著作の表紙には、唯一絶対の神の存在証明のためになどと書かざるを得なかったのです。さうしなければ、ローマ法王庁に召喚されて、異端審問の裁判にかけられて、ガリレオのやうな目にあったのでせうから。

バロックの時代は、動乱の30年戦争のあったドイツの混乱を中心に、無秩序のヨーロッパでしたから、誰も彼もが、日本語でいふならば、神も仏もあるものか、とさう思ったのです。

バロックの時代とは何か、バロックの精神とは何かとひとことを卑俗な日本語で云へば、神も仏もあるものか、なのです。デカルトの精神、cogito ergo sumを、そんな風に言い換へることができます。

これはまた次回お会ひした時に詳細を。

3。貴君の引用してくれたバタイユの言葉へのコメント
バタイユ曰く:

「私達は歴史の中でしか存在[=生成としての動き]を捉えることができない。つまり、変化の中で、ある状態から他の状態への移行の中でしか捉えられないのであって、別個に次々に眺められた状態の中では無理なのだ。-エロティシズム-」

生成とは時間の中にあるものですから、あるいは時間によって生まれるものですから、バタイユのいふやうにいふことができますね。つまり、

「私達は歴史の中でしか存在[=生成としての動き]を捉えることができない。」

といふことです。しかし、そのやうな変化を捨象して、空間的に存在を考へることもできるのです。(これが安部公房の世界です。)

これが、このtweetに対する貴君のコメントですね。よくわかります、即ち、

「つまり実存はSein(ザイン・存在)とZeit(ツァイト・時間)の積だ。」

とどうしても言いたくなりますし、これが現実に生きることだと、つまり、積算といふ時間の存在しない空間(これは安部公房)と時間(これは三島由紀夫)を創造する計算のことをいふことになるのです。安部公房の言ひかたをすれば、このやうな積算値としての自己とは何かと云へば、それは、

存在(Sein)としてある自己のままに、即ち時間の中(変化の中)にある、更に即ち社会の交換関係の中にあって(社会とは時間の中では交換関係を人間に要求しますが)、いかなる役割も演ずることなく(役割を演ずるとは個人の分化ですから)、そのやうな交換関係のないままに生きること、これが実存であり、無償の人生であり、この人間のあり方を実存(これを安部公房は「未分化の実存」と呼んでゐます)といふのだ。

といふことになります。即ち、

存在(Sein)のままに時間(Zeit)の中で生きること

ですね。

貴君のいふ通りだと、私も思ひます。

「ハイデッガーに於ける〈現存在〉をバタイユはここで再定義したかったのだろう。」とあるのは、その通りです。

「しかも「時間」を〈歴史〉と言うことでバタイユの存在論はハイデッガーよりアナログになった。」とあるのは、これも、さうだと思ひます。

「エロティシズムの本質はアナログなのかも知れない」、ええ、エロティシズムの半面は、その通りです。そして、他方の半面は、「エロティシズムの本質はデジタルなのかも知れない」といふ真実です。前者は三島由紀夫の世界、従ひ西村幸祐は三島由紀夫の読者であり、他方、後者は安部公房の世界であり、かくいふ岩田英哉は安部公房の読者といふわけです。

僕の結論: 世界は差異である。

世界は差異でできている。これがバロックの哲学者や数学者たちの、神も仏も無い時代の、世界認識です。数学者としてのニュートンとライプニッツは微分と積分を創始しましたね。これらも差異に関する数学です。

考へてみれば、時間も空間も差異にほかなりません、勿論言葉の意味もまた差異なのです。これらのことは、あった時に話したい。

さて、といふ訳で、前者、即ち三島由紀夫の差異は、時間(時間は時差です)となって現れ、後者、即ち安部公房の差異は、空間(空間も差異、即ち隙間です)となって現れる。ともに、神聖なる差異であります。

前者の差異は河となって、三島由紀夫の愛唱したヘルダーリンの詩『追想』にあるやうに「豊饒の海」、即ち存在の中に流れ入り、若者は一人存在の海の、その永遠の航海へと出帆し、対して後者の差異は、安部公房が愛唱したリルケの詩にあるやうに、隙間となって神聖なる世界を荘厳する差異、即ち存在が其処に生まれる。

話は尽きません。

西村幸祐の健筆を祈る

岩田


2016年10月12日水曜日

映画『君の名は。』を読む

映画『君の名は。』を読む

今映画館より戻って、恰も未だ彗星の落下して余燼さめやらぬ糸守という時間の無い神話の土地にゐて、この文章を書いてゐるやうな気持ちがする。

もう一つの映画『シン・ゴジラ』と何か私たち日本人の意識の下で同期してゐる他方の映画が、『君の名は。』であると、最後まで映画を観て思つた。

最後まで見るとよくわかりますが、この映画は、丁度『シン・ゴジラ』が 、現在から見て未来の時間、即ち2027年完成予定の現時点で存在しないビルを丸の内のを現在の時間の中に置いてシン・ゴジラに破壊をさせてゐるのと同様に、2021年の東京と、その8年前(といえば、映画発表の時間よりも前に起きた)衛星の糸守町落下による500名死亡の時間とを現在の時間に於いて交換して、その世界を今創造してゐるのです。
映画シン・ゴジラを読むhttps://word-eyes.blogspot.jp/2016/09/blog-post.html

つまり、二つの映画は共に、過去と未来の時間を、現在に於いて交換することによって、無時間の空間を創造して、そこでそれぞれの主人公の物語が紡がれてゐるのです。

従い、そこに立つシン・ゴジラは彫像のやうに時間の外に立って不動であり、『君の名は。』の二人の永遠にお互いを求め続けてゐる若い一組の男女もまた、同じ現在の東京に於いて、しかし無時間の神話の世界の中で、あの坂道の階段を歩いて一度すれ違いながら、若者はその上で、乙女はその下の方で互いに振り返ってお互いに遂に永遠に不動のままに出会うことができたのです。

私は映画『シン・ゴジラ』を読む」で、映画『シン・ゴジラ』と『君の名は。』の共通性と題して、次のように書きました。

role reversal(役割交換)といふ視点から見れば、この二つの映画は同じ主題を扱ってゐます。

それが、role reversal(役割交換)であり、ともに私たち人類の、多神教の世界に棲む古代ギリシャ人はこれをlogos(ロゴス)といひましたが、その深い転生輪廻の意識に関わる論理から生まれた作品だといふ事です。ヒンズー教も仏教の思想もそれから生まれ、釈迦も此の論をなした。私たちは、21世紀の今Cool Japanの一部として此ををなしてゐる。

二つ目の共通する主題は、映画の多義的な解釈をゆるす此のrole reversal(役割交換)です。【註1】

実際に『君の名は。』では、滝くんと相手の乙女に呼ばれる若者と、三葉と滝くんに呼ばれる乙女が、役割を交換して、それぞれの体の中への転移をします。それも彗星衝突による大爆発の始めと終わりの間の時間に於いてのみであるのですが、しかし岩倉といふ乙女の家の神社の御本尊の岩倉の力を借りて、そうして此の岩倉の大石の存在する神聖な場所は、周囲を水または川で囲まれた死の領域にあるわけですが、その神聖なる岩倉の力を借りて、また此の御本尊の岩の中に三葉が奉納した口噛み酒を自分の意志で三葉にどうしても会うために一献飲んだことによって、謂わば神威によって、二人は再び出会うことができて、8年前の彗星衝突の大事故の時間と2012年の未来の時間が其の神聖なる場所で交換されて、他方、観客が現在映画を観る現在の時間の中で其の2012年という未来の時間を現在の時間のこととして虚構の真実の中に見る、そのような現在の二人の再会を目の当たりに、映画の最後に観客は、することになります。

物語の此の神話的構造化の素晴らしさは、この出会いが一回限りなのではなく、無時間の神話的な世界での出会いでありますから、永劫に回帰を、転生輪廻を繰り返す、そのような出会いであり得ているということです。最後の坂の階段上での垂直方向での二人の出会いは、そのことを示しております。

交換は時間ばかりではありません。以下、私の気づいた交換を列挙して見ませう。

1。都会と田舎
2。男と女
3。現実と夢
4。記憶と忘却
5。覚醒と睡眠


これらは互いの差異の交換と言い換えることができます。交換とは、商業的な世界でも通俗的にさうであるように、余剰という富を生み出します。

物語の此の富を生み出し、差異を一つに纏めるのが、乙女の祖母の語る神様の話で、即ち結びと換称で呼ばれる神様です。この神様は、乙女の祖母に寄れば、時間を逆流させ、曲げ、捻り、二つの時間を結ぶことができます。

この神様の御神体が、宮水神社の御本尊である岩倉です。その場所は水または川を渡ったあの世であり、こちらはこの世です。

そうして、二人は、これもやはり古語で言われる夕方、即ち彼は誰時(カワタレドキ)に出会うのです。彼は誰時(カワタレドキ)とは、昼と夜の間、その差異に存在する時差であり、時間の隙間です。

そうすれば、上の交換の表に、更に、

6。昼と夜

を付け加えることができませうし、更に、この差異の、隙間の時間は、二人が生死を共有する時間でもありますから、

7。生と死

を加え、更に、

8。この世とあの世

を、御本尊の岩倉の場所を思い出して、追記することができませう。と、してみれば、更に、

9。現代感覚と古代感覚
10。科学と古代
11。彗星と地球
12。天変地異と、終末にはならない世界

といった交換の名前を挙げることができませう。

日常的な時間のある世界の中での此の交換が生まれる契機として、この映画の作家は、敷居の上を扉や障子や電車のドアを何度も事ある毎に滑らせて、交換の下地とし、その予告としてをります。この敷居の登場する回数を数えると、あなたは映画全体を章節に分けて、映画の成り立ちと仕組みを知ることができるでせう。

また、三葉が東京に滝くんといふ男子を探してに来て、東京の電車の中で其の男子を探して見つけて側に寄って立つ四ツ谷駅に至る前に、その駅の手前のトンネルを電車が抜けてから、そうなることにやはり深い意味があると思われます。トンネルは、二つの別の世界を接続する働きをするからです。

さて、こうしてみますと、最後にもう一つ交換の名前を挙げることができます。それは、

13。時間と空間

です。

最後の最後に物語は進んで、次の交換がなされることになります。

14。「お前は誰だ?」と「君の名は。」

上の14の前者の問いは、映画の冒頭に、男女の魂の交換が起きてから(本当は交感と書いても良い位ですが)、極く最初のところに若者が乙女のノートに書き、後者は前者に同じ書き付をしてお返しをするわけですが、この「お前は誰だ?」といふ問いに対する答えは、最後に「君の名は。」と、坂の上下で二人が無言のうちに、沈黙のうちに答えるところで、映画と共に、終わっています。

これが「君の名は。」とあって、「君の名は?」ではなく、「。」でperiodが打たれてゐるのは、既にして無時間の中の神話的な世界で答えが明らかだからであり、疑問文なのではもはやなく、既にして確定した、疑問の余地のない肯定形の平叙文であるからです。

この結末の坂の階段での二人の男女の出会いの情景は、1953年 制作された松竹映画「君の名は」で、1945年5月東京大空襲の夜、焼夷弾が降り注ぐ中、たまたま出会って共に戦火の中を逃げ惑って知り合った氏家真知子と後宮春樹 の物語、即ち敗戦後の日本人が共有した物語が終わりを告げ、お互いの名を問ふことの要なく、行き違うことの要なく、上述の世界に「既にして」出会ってゐた二人であるが故に、「君の名は」ではなく、「君の名は。」として、この70年の時間もまた終焉を迎えたのだといふ、私たち日本人の明瞭な意識を日常感覚のままに示しています。そうでなければ、短日時の膨大な量の観客が脚を映画館に運ぶことはなかったでありませう。

映画の観客は若い男女多いという記事を見ますと、この二人の生み出す余剰の、富の、豊饒の物語に、若者たちが古代感覚と神事の感覚、また祭祀の感覚を感じ、これが蘇生した、いや此の感覚は眠っていただけでありませうから、覚醒したのだといふことを、私は感ぜずにはゐゐられません。

この神様を結びと呼び、またあの2011年3月11日の大地震・大津波以来、私たちの共有してきた絆(きづな)といふ言葉に此の神様の名前が通じてゐる以上、この神はまた、三葉の祖母のいふ通りに、70年の時間を逆流させ、曲げ、捻ることが楽々とできる神様のです。いや、このことを既にして自覚してゐる私たち日本人もまた同じ力を有してゐるといふ事なのです。

勿論、結びの神とは縁結びの神でもありますから、観劇した若い男女を結びつけることになる、ひょっとしたら此の映画は縁結びの神さまといふ事で、密かに若者に人気を博してゐるのかも知れないと思ふほどです。

最後に歌われる主題歌が、退出する観客へ、時の隠れんぼはもう終わった、時のはぐれっ子を演ずることはもう終わりだと、そう告げてゐます。もうそんなことは嫌だ、と。

『シン・ゴジラ』であるならば、海の底に沈んでゐた海神(わたつみ)が、第4形態となっって東京に上陸することを意味してゐることでせう。

これら二つの日本映画が海外でどのような世評を得るか、誠に興味深いものがあります。

【註1】
Role reversal(役割交感)とは文化人類学用語でもあり、このような役割の交換を、人類学の用語で、communitas(コムニタス)と呼びます。これは、人類学者の観察によれば、社会が流動化して、大きな変化を経験しているときに生まれる儀礼である(これも儀礼になりえる)と説明されています。Hatena Keywordから引用します(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%E0%A5%CB%A5%BF%A5%B9):

「【communitas】スコットランドの文化人類学者ターナー(Victor Turner, 1920-83)が提唱した概念。
通過儀礼(イニシエーション)の中での人間関係のあり方を意味する。
身分、地位、財産、男女の性別や階級組織の次元など、構造ないし社会構造の次元を超えた、あるいは棄てた反構造の次元における自由で平等な実存的人間の相互関係の在り方と定義されている。」

【註2】
本論の姉妹編映画『シン・ゴジラ』を読む」より、君の名は。が『シン・ゴジラ』と共有する(西洋の哲学用語でいう)超越論、即ち汎神論的存在論について述べた箇所を、少ない記述ではありますが、引用します:

間違ひなく、この監督の至つた此の思考形態、即ちヨーロッパ人が哲学の領域でいふ超越論(独: Transzendentalphilosophie, 英: transcendental philosophy)が、これからの日本人に深い影響を及ぼすでせう、いや既に、観客動員数としてみれば明らかなやうに、及ぼしてゐるわけです。

【註3】
もし文明論的に、文明史論的に、これら二つの映画を並べて纏めると、一神教であるキリスト教から生まれた近代といふ時間の資本主義や民主主義という白人種の生み出した制度を、多神教の、八百万の神々の世界に生きる日本人が、その映画史上の発生史の二つの類型(タイプ)の映画、即ち演劇的な映画とアニメーション映画の二つを同時に製作して、共にそれらを(西洋哲学の言葉で言えば)汎神論的存在論として製作し、一神教の文明と文化を超えた世界を、また従い古代的な多神教の感覚と論理を、つまり終末をではなく、永劫回帰と転生輪廻を、永遠の繰り返しの世界を、その民族の歴史と伝統を真っ直ぐに受け継いで素直に、そのまま映像化した、そのような二つの映画を、日本の映画界は同時に製作したということになります。

とすれば、最後の最後に、次の差異を。

15。一神教と多神教

いや、もう一つ。

16。「君の名は」と「君の名は。」

      1945年の「君の名は」
2016年の「君の名は。」





2016年10月11日火曜日

たじり しげみ著「しあわせの『コツ』」を読む

たじり しげみ著「しあわせの『コツ』」を読む




同著を作者よりご恵送戴きましたので、お礼というにはささやかでありますが、私の感想を此処に掲示して、その素晴らしさがどこにあるのかを、これから本を手に取る読者に、そしてその読者が年少の読者であればあるほどに尚、お伝えしたいと思いましたので、筆を執った次第です。

私はこの本を一読して、次の二人の人間を思い出しました。

一人は、勿論安部公房であり、もう一人はルネ・デカルトです。

何故ならば、この本は一体何かと言えば、これは誰でもの人のための人生の模型と其の設計図を提示しているからなのです。

安部公房の例を挙げましょう。安部公房は、1944年11月21日に『〈没落の書〉』と題する、これから自分の生きる20世紀を前世紀からの歴史の継承と其の超克といふ観点から如何に生きるべきかを、二十歳の青年として、次のように書いております。

「私は唯一の解決者たる宿命を拒みはしない。私は自分が他愛の義務を、自分の詩魂の内に感ずる事を人々の為に祝福する。私は総てを展開しよう。だが常に注意し給え。解決は言葉の最後にのみ与えられるものではない。君達は画き出す人でなければならぬ。私は単に暗示者だ。絵具と構図は君達にまかせる。私はモデルを象徴しよう。」(安部公房全集第1巻、141ページ、上段。下線部は評者による。)

安部公房のすべての作品はいづれも、ジャンルを問わず、この精神に基づいて書かれております。

安部公房はモデルを提示し、私たち読者は実に自由に自分の読み方をして、構図を描き、好きな色の絵の具を使って、誰にも書くことのできない一回限りの、自分の人生の絵を描く。これが、安部公房の読者の、謂わば、特権と言って良い有り難さです。他の作家には、このような意志と意図はないように思います。

もう一人は、17世紀のフランスのバロックの哲学者、歴史に名の高いデカルトです。

『方法序説』に次の言葉があります。

「私の計画は、私自身の考えを改革しようとつとめ、まったく私だけのものである土地の上に家を建てようとすること以上におよんだことはけっしてない。私のやったことが私には十分満足すべきものであって、ここにその模型を読者に示すとしても、だからといってそれに倣うことを人にすすめようとするつもりなのではない。神の恩寵をさらに豊かにめぐまれた人ならば、たぶんもっと高い計画をいだくことであろう。」(中央公論社「世界の名著22 デカルト」174ページ。下線部は評者による。)

このように模型を示してくれる大人を発見すること、これが子供の理想の、自分の人生の設計図を書くために必要なことなのであり、そのような模型の設計者としての大人なのであり、また同時に自分自身がそのような模型と設計図を提示できる大人となることが、子供にとっては、自分自身の人間としての、楽なだけではない人生を生きるための、理想の姿なのではないでしょうか。

そのための本が、この「しあわせの『コツ』」だと、私は思います。

この本の中の言葉は、「あとがき」によれば「当時専業主婦だった私」が「文字通り起きてから寝るまで家事と育児に明け暮れていて」「ある日のこと、食卓を片付けていたら」その最初の一行が「突然頭に浮かんできた」とのことです。そうして、20分で食卓の上で「忘れないように私は急いでそばにあった新聞の折込チラシの裏側に書き留め」た、これは詩です。

最初の題名は、『しあわせの『コツ』第一章』であったとのことです。

安部公房は、上の引用した同じ二十歳の年に書いたもう一つの重要な論文『詩と詩人(意識と無意識)』に同じ思想を次のように書いております。

「解釈学的体験、― 次の数行の余白はその無言の言葉で埋められるのだ。(私は君達の自己体験をねがう為に此の余白を用意したのだ)
   ………………………………………………       
     ………………………………………………
           …………………………………………         」
(同全集第1巻、112ページ、下段)

そうしてこの5ページ後に、単に第二章第二節に「二」とだけ次節の数字の文字を書き付けて、さあ、あとは君たちが自分の言葉で、自分の人生をどう生きるつもりなのか、この先を書いてくれと、そうその思いを伝えております。

もし贅沢な苦情を此の素晴らしい全33ページの本に申し立てることを著者がゆるしてくれるならば、「あとがき」にお書きになっているように、そうしてそうなさったかも知れないように、第一章を題名に残して、そうして第二章という章を立てて、二十歳の安部公房がそうしたように、そのページの本文を余白として、幼い読者に示して下さるとありがたいかもしれないと思いました。

その読者は、その余白の白を一生忘れないことでしょうから。そうであれば、何度でも自分に固有の人生をやり直すことができると既にして、無意識に確信していることでしょうから。

最後に、著者が読者に提示している16行の文からなる模型と設計図の最初の二つの行は、次のように簡潔明瞭なものです。

「きみが だれかのために 尽くすとき」
「きみの ちからは 千倍になる」

このあとの14行は、書店で手にとってお読みになって下さい。きっと著者もまた、その事を願っているのではないでしょうか。







2016年10月3日月曜日

チャンネル桜の3時間討論会「シン・ゴジラから見えてくる日本の現在」に対する感想

チャンネル桜の3時間討論会「シン・ゴジラから見えてくる日本の現在」に対する感想


あっというまの3時間でした。面白かった、しかし、まだ議論が足りない。時間がなかったから。残念。

社会で仕事をして痛感したことは、専門家というのは、その専門の内側の領域しか知らないといことです。弁護士、国際国内の公認会計士、弁理士等々。

この場のみなさんもそれぞれに大変優れた業績をあげていらっしゃる方々ばかりで、全く素晴らしいけれども、しかし、内側に入ってしまふのだな。

何故、パロディーだとか(本来の意味は佐藤さんがいうようにそんな軽い意味ではない)、自閉の世界だとかと、あれこれいうのだろうか。あれこれは議論だから楽しいし、意義も意味もあったとおもますけれども。

言語の世界からこの世の生きた人間の言葉を見ると、そのひとが対象について語ることは、実はそのひと自身のことを語っていると考えて、全く間違っていないのです。藤井聡さんも小説オタクだったのですね。藤井さんもその危険性に気づいて、小説という対象の外に出た。でも、そうであれば、また内側に入って、また出て、出たり入ったりしたらいいじゃないか。どちらか一方に、二つに分けてしまふというこの、分裂を、裂け目をそのままに固定化したいということが、敗戦後の日本人の致命的な思考欠陥です。

だから役割交換(role reversal)の君の名や、同じ役割交換のシン・ゴジラが受けているのではないのか?これは文化人類学の用語でもあります。

みなさんは俗にいうインテリだから、庶民の心、心情、理屈がわかってゐないのではありませんか?これも厳しい批評でせうか?なぜなら無名の庶民は毎日日常の時間の中で、それこそ藤井さんが最後の最後に、よくぞ言った、実存を生きているからです。つまり、志を持ってその現存在、Das Daseinを生きているからです。実存という言葉があそこで出る藤井さんという方は、やはり哲学を学んだのですね。学者に必要なのは哲学だと、私は思います。

この場では、言葉の少なかった人ほど、素晴らしかった。特にあの環境庁の女性の役に扮した木坂さん。だって化粧し役者になって出てくるのですから、あの場が舞台だと思っていて、それもパロデイーにしてゐる。これこそ笑いのありユーモアもある(みなさん笑っていましたね)二重の高等なパロディーです。パロディーのもたらす効果は、笑いとユーモアです。あの場で木下さんの意匠と仮装を全員が笑っていたように。

あと、西村さん。最後に西村さんが発言していた、映画はフィクションで虚構だというこのことが、あの場でもっと議論できなかったのは残念。みなさん現実と結びつけ過ぎです。しかし、まあ、時間がなかったのが惜しかった。この議論は尽きないでせう。人間が作品を創造することの本質論になるから。それこそ哲学に依る議論が必要ですね。

楽しい3時間でした。感謝申し上げます。


2016年9月25日日曜日

私たちは、何故TVをみなくなったのか?


私たちは、何故TVをみなくなったのか?


目次

前篇
        1。あるTwitter(SNS)での投稿
        2。マスメディアであるTV放送
        3。マスメディアであるTV放送本来の目的
        4。マスメディアである新聞紙
        5。マスメディアであったレコード盤とiTune(携帯音楽)
        6。マスメディアである紙の書籍と電子書籍(携帯書籍)
        7。マスメディアである映画館と携帯映画(Netflix)

後篇
        8。Heuristic thinking
        9。幕内弁当論
        10。俳諧論
        11。まとめ
*******

1。あるTwitter(SNS)での投稿
最近twitterの投稿をみていて、このような投稿を目にして、思うところがあったので一文を草します。

ある父と息子との会話です。

息子が独立して家を出た。父親がその部屋を訪ねたところTVがない。何故TVを買わないのかと父親に問われた息子の答えです。

「TVは、スイッチを入れると途中で始まるから。」だから、買わないというのです。そのようなものは対価を払ってまでして、手に入れる価値がないといっているのです。

これは、今のわたしたちの意識のことを考えてみると、この息子は若者ですし、若者ですらですから尚更ですが、しかし、この意識は全く年代を隔てることなく、どの年齢層にも共通してある意識なのではないかと思ったのです。

そして、このように考えて、実際にどうだろうかと或る時、20代から60代までの人達からなる10名ほどの席で、皆さんTVを見ますか?と質問したら、誰もTVを見ておりませんでした。

この意識を言い換えると、自分の時間があって、それはいつも自分が始めることができ、終わらせることができるのに、TVにはそれがないということを言っているのです。

これは、mobility、mobileを手にして移動して、いつでもどこでも、即ち相手や対象との、また求めるものとの距離と時間が0になった時代の意識の、普通のありかたです。

自分の時間は自分で制御できるのだし、そうしたいのだ。これを時間の個別化と呼ぶことにしましょう。時間のpersonalization(個別化)、あるいは、personalized time、個別化された時間です。

2。マスメディアであるTV放送
これに対して、マスメディアであるTV放送は、大量一斉同報であって、通信のmobilityを手にした個人または個衆のひとりひとりにとっては、意味をなさない。意味をなさない番組のひとつ(あるいはほとんど)が、複製技術によって制作された番組です。

そんなコピーされた、過去に制作されて今大量一斉同報するようなものは、既にネットでYouTubeのように個人がスイッチを入れることができ、途中で別のことがしたければ停止ボタンを押して動画を停止状態にすることができ、また途中から再開して、最後に至ることのできるサービスがあるのであるから、そのように実況中継ではない、ライブではない放送でない限り、TV受像機の前に座って、あらかじめ指定された時刻に始まる時間につき会う必要はないのです。

従い、TVは本来自分の始まりに戻って考えるべきでありましょう。即ち、TVとはそもそも何であったのかという原点です。そうしてみると、最初期のTV放送は、すべて実況中継であったことが思い出されます。ドラマもスタジオでライブで劇を行い、役者はやり直しのきかない一回限りの演技をして、その様子を実況中継したのでありました。

3。マスメディアであるTV放送本来の目的
ということは、実況中継の大量一斉同報こそ、本来のTV放送の固有の領域であるということになります。近代のメディアの歴史、技術の発達と共に、次のように考えることができます。このことは、安部公房も言っていて、今全集のどこにあったか、引用できないのが残念です。曰く、

(1)絵画→写真
(2)演劇→映画
(3)映画→TV
(4)TV→インターネット上の動画(YouTube)と実況中継(ustream)

と、このように藝術と技術は発達してきたが、それでは後進の藝術と技術が前進の藝術と技術を衰退させて、滅ぼしたかというと、確かにそのような藝術と技術もありましょうが、残った後進があれば、それはもともと固有の領域に戻って、それに忠実であったために残ったのだという安部公房の意見です。さて、その眼で上の歴史を振り返ってみますと、

(1)の絵画は、写真の登場によって、その役割が廃れたかというとそうではない。やはり、絵画には絵画固有の価値を持つ領域があって、そこに残っております。
(2)の演劇も、映画が登場したから廃れたわけではない。
(3)の映画も今度はTVの出現によって、確かに衰退はしましたが、しかし、やはり今でも其の世界は確かにあり、後述するようにメディア(媒体)を変えて、技術の進歩とともに、人間の意識の変化に適応して、生き延びるどころか成長を続けています。さて、
(4)のTVが、この稿の対象であり、TV固有の領域を思い出そうというのです。

さて、このように考えて来ると、TVの固有の領域、即ち実況中継の大量一斉同報は、報道であり、報道だけが此のメディアの命脈を保つ役割なのではないでしょうか。つまり、事件の実況中継です。

そうすると、TVのその役割は、事件、eventということから、ゴルフ、野球、テニス、サッカーなどのスポーツ、国会の議事、音楽会、演劇の実況中継といったことが考えられます。
しかし、更に考えてゆくと、既にこれらの専門チャンネル(放送ではなくチャンネルと呼ばれる、即ち(NHKのように)一つのTV局が複数のチャンネルを総合的にまとめるのではなく、各チャンネルが独立しているそのようなものが既にあって、既にそのような放送がチャンネル別に個別に行われています。

すると、大量一斉同報のTV局は何をすればよいのだろうか?この事情と全く同じ事情は、マスメディアである新聞紙にも起こっています。

3。マスメディアである新聞紙
今新聞紙が売れないのは(敢えてメディア(媒体)の特性をあらわにするために新聞ではなく、新聞紙と呼びます)、インターネットという距離と時間を0にするメディアの登場によって、報道、即ち事件に関する速報性の喪失が原因だと、わたしは思います。何故なら、インターネットの特性は次のようなところにあるからです。

(1)伝播の範囲の無限といってよい拡大
(2)伝播の高速度
(3)上記(2)と(3)に基づく瞬時の情報の共有と周知

ですから、TVの場合と同様に、新聞紙の生き残る道は、専門の報道をする、例えば、プロレスの新聞、ゴルフの新聞といったように種目を絞ったスポーツ新聞、釣りの新聞、競馬の新聞(これは今でも既に売れている)と名前を挙げてみれば、個別主題の特殊特別の新聞が重宝されるということになります。

5。マスメディアであったレコード盤とiTune
同じ意識の変化は、音楽の世界にも起こっています。それは、メディアの変遷と裏腹の関係にあります。

レコードというメディアのあった時代には、一枚のレコードは一人の歌手や一つのグループのための曲が総合的に収められていました。ビートルズのアルバムはどのアルバムもビートルズの作曲したビートルズの曲ばかりです。他の音楽グループも個人の歌手も、このようなレコードの総体をアルバムと呼んで、上のTV放送局が複数のチャンネルを持つのと同じなレコードの総体をアルバムと呼んで、上のTV放送局が複数のチャンネルを持つのと同じ形態を、一枚のアルバムは備えています。即ち、1メディア:1人物:1制作物でした。

しかし、インターネットの時代になって、ことにスティーヴ・ジョブズがiTuneというサービスを始めてから、そうしてiPodを発売してから、音楽の世界も同様に、この技術的進歩に因って、急激に変化を遂げました。このiTuneというインターネット上の音楽配信サービスの愛好者には、もはや1メディア:1人物:1制作物という意識はありません。

何かのグループのファンであるとか、あの歌手のファンであるということよりも、あの歌手のあの曲、このグループのこの曲、その歌手のその曲、あのグループのあの曲といったように、一曲一曲を自分の好みに従って、安い単価で購入して、自分の手元においておくこと、それは自分で自分のアルバムを制作するのと変わらない。しかし、それは既に上で述べたような旧来のアルバムではない、従い、それはアルバムと呼ぶものではない何かだということになります。

アルバムとは、普通にわたしたちが言う家族アルバムがそうであるように、ある親しい集団についての写真が収納されているものが、アルバムなのでしょう。

とすれば、異種多彩な歌手やグループそれぞれの曲を収納する行為は、アルバムを制作するとは、もはや言えないことになります。スティーブ・ジョブズは、そのようなコレクション(と呼んでよいものかどうかは、まだ吟味の余地がありますが)を収蔵する場所をiPodと呼ぶハードウエアに実現したのですし、このpod(坩堝)という名前からして、何もかも異なったものを混ぜこぜにして一緒くたにして収める器としてのメディアだと、この命名はいっているのです。

6。マスメディアである紙の出版と電子書籍
この同じ事情は、書籍の世界では、アマゾンにあっても同様であり、紙の書籍を販売していたことから更に此れを延長させてKindleという携帯型のmobilityのあるmobileである読書装置を販売し、ネット上で電子書籍の購入を、読者がその好みに従って行い、この場合は名前が確定していて、自分の図書館、libraryをつくることが当たり前になっているのと、このiTuneのサービスとは、同じ事柄であることがわかります。図書館にはコレクションもあるでしょうから、そうしてみれば、iTuneにあっても、それは個人の収集する楽曲のコレクションと呼ぶことができることになります。コレクションを、日本語で書籍の文脈で日本語にすれば、文庫ということになるでしょう。

さて、このふたつのサービスの共通項は、自分の好みの作品を収集して、自分の好みの世界を創造し、それらの作品をすべて携帯できるというということです。そうして、時間と距離は0になっているインターネットの特性を利用して、そのmobilityによって、いつでもどこでも利用することができる。

何か既成の、お仕着せの、大量生産でできた商品は不要であるという意識であり、これはそのまま、20世紀までの資本主義と民主主義の根底にあった考え方、即ち個人は何かを所有することが自明とされた前提が、自明ではなくなっていて、それは一箇所に留まる所有ではなく、携帯であり、持ち運びであり、従い、その限りにおいては、持たずに必要な其の時だけ借りるという考えであり、単に何かにアクセスして読み、視聴できれば、それで十分だという考えであり、所有ではなく一時的に必要な時にだけ借りれば良いという意識でもあります。(この議論は奥が深く、政治と経済の形態の話に及びますので、機会を改めて、安部公房の視点で見るとどう見えるのかを論じることにします。)

7。マスメディアである映画館と携帯映画(Netflix)
としてみれば、映画の領域では、既にNetflixというiPadやスマートフォンや、あるいは自宅のpersonal comupterの上で、幾つもの場所を移動しながら観ることのできる携帯映画館のサービスがあります。その背景も上に述べたところと事情は変わりません。

さて、実際に今、あなたの意識はこのようなものではないでしょうか?

(続く)



2016年9月23日金曜日

英語圏のシン・ゴジラ批評は?

英語圏のシン・ゴジラ批評は?

今英語圏の、と言ってもヒットして出てくるのはアメリカばかりですが、シンゴジラ批評を読んでいます。

ファンとといふか、マニアといはうか、とにかく日本人と共有する感覚を持つのですね。安部公房や三島由紀夫や村上春樹の読者も同じなのでせう、ファンといふものは。以下、複数の映画評の中から、アメリカの限定公開がどのやうな結果になるのかを考へる資料として、そして質の良い批評を三つ選びました:

A Terrifying, Definitive Masterpiece: "Shin Godzilla" Review (SPOILER FREE VERSION)

Hello, my fellow Godzilla fans.

Over the last week of July, I was blessed to be able to make an unbelievable and extraordinary pilgrimage to Japan, the Land of Godzilla. The trip was the journey to end all journeys, and I was able to see and do some incredible things that I never thought I would EVER get to do. From dining with genre veterans Akira Takarada and Hiroko Sakurai to visiting Daiei and Toho, and from meeting my heroes at Ultra Fest to shopping at Akihabara and Nakano Broadway, it truly was a full mind, body, and spirit emersion into kaiju culture.

(略)

Part political drama, part allegorical horror film, and part old fashioned creature flick, Shin Godzilla is a remarkable achievement. It has broken new ground in the series, and, although it honors the origins of the character, and feels very much like a Godzilla film, it has truly left the old world of Godzilla behind. Trust me when I say, you have NEVER seen a Godzilla film like this before.

前半を読むと、これはもう、聖地巡礼の心境ですね。これが、アメリカ人でもコアな、怪獣(これもそのままKaijuといふ英語になっていました、どの映画評のウエッブサイトでも。Tsunamiと同列に並んでゐました)ファンは、上のやうな感想を持ってゐると考へて良いのではないかと思ひます。このセンスはそのまま、ポケモンGOに通じてゐますね。そして、ゆるキャラの澎湃たる登場にも。

上の引用の後半部分の感想は、どの批評にも共通してゐたものです。大東亜戦争の敗戦、東北の津波と大地震、それによって惹き起こされた福島の原発の事故。アメリカ人は、この3つをシンゴジラに見てゐます。

それから、日本に住んでゐるアメリカ人の少年二人の対話型の感想がYouTubeにのつてゐました。やはり、ここでもnot traditonalなゴジラだと、理解されてゐます。この二人、ゴジラを見るために日本に住んでゐるんぢゃないかといふ感じがする位です。


シンゴジラは”not traditional Godzilla”という日米双方の共有する理解をもとに、これからの世界中のシンゴジラ評を読むのは、ありだと思ひます。勿論、これだけが全てではないけれども。

他方、この評者もバランスのとれがアメリカ人で、次のやうなコメントをレヴューの最後に付してゐます。大体最後に付記するといふのが、本音を表してゐます:

On a more personal note – From everything I’ve read, seen translated, and heard from westerners (insiders who also happen to be fans) who have seen the film, I’d say SHIN is very much a reflection of modern-day disasters for Japan, and how they deal with tragedy. That may seem obvious, but it should drive home the point that this film isn’t being made for us western fans, it’s being made for the modern Japanese public. So far, all signs point toward a film the Japanese will embrace, and western fans perhaps will scoff at as “boring” and “political”. As fans, we’ve got to try and remain grounded, though – I am still very cautiously optimistic for this film, and have very mixed-feelings going in. Perspective, however, is key.