2016年11月29日火曜日

西村幸祐氏との往復書簡1:ジョルジュ・バタイユについて

西村幸祐氏との往復書簡1:ジョルジュ・バタイユについて

岩田様

どうもありがとう。

村上論も拝読します。村上春樹に関しては、僕は『幻の黄金時代』で半分肯定・半分否定で取り上げた。「1973年のピンボール」は読んでいないので、いつか読んでみる。

ツイッターにバタイユの言葉をUPするアカウントがあって、こんなことを言っているので、

「私達は歴史の中でしか存在[=生成としての動き]を捉えることができない。つまり、変化の中で、ある状態から他の状態への移行の中でしか捉えられないのであって、別個に次々に眺められた状態の中では無理なのだ。-エロティシズ-」

僕はこんなコメントを残しました。

「つまり実存はSein(ザイン・存在)とZeit(ツァイト・時間)の積だ。ハイデッガーに於ける〈現存在〉をバタイユはここで再定義したかったのだろう。しかも「時間」を〈歴史〉と言うことでバタイユの存在論はハイデッガーよりアナログになった。エロティシズムの本質はアナログなのかも知れない」

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西村様、

バタイユや貴君のコメントをありがたう。

1。キリスト教と哲学
この年齢になって、やっとヨーロッパのキリスト教といふ一神教、唯一絶対のGodしか存在しないといふ論理から白人種が逃れるために生んだのが哲学といふ学問であり、言語科学であること、その上に物理学その他のいはゆる科学が生まれたことを明解単純に知るに到りました。

2。バロックの時代
それが、パスカル、デカルト、モンテーニュ、ライプニッツ、ニユートン等々のヨーロッパの17世紀の哲学者や数学者を兼ねる人間たちです。

このバロックの眼で見ますと、このバタイユ専門のtwitterにあるジョルジュ・バタイユの次の言葉:

「ジョルジュ・バタイユ ‏@G_Bataille_jp 2時間 2時間前
[超キリスト教的な]世界観に従えば、神から離れ、落ち来たるものは、もはや人間ではない。神自身(或いは全体性と言っても良い)だ。この見方において神は、神概念と同程度のものを内包している。いやむしろより多くを内包している。ただしこの「より多く」は神そのものである故に自分を無化する。」

といふ言葉は、やはりキリスト教の範囲を出ない。この思考論理では、最初から限界があります。しかしどこを志向してゐるかは、白人種の論理としてよくわかります。

Godといふ絶対的な存在が、自分自身に再帰(recursive)すべきだとバタイユは言ってゐるのです。この志は正しい。しかし、内包してゐると言ってしまふと、元の黙阿弥になってしまふ。

キリスト教のGodは、唯一絶対のGodですから、バタイユの論理になってしまふ。バタイユの思ひはさうではないのに、その論理の外に出たいと願ってゐるのに、です。

ここにキリスト教徒の(神学から来た)思考論理上の限界があります。上にあげた17世紀のバロックの哲学者たちは、これに対して汎神論的存在論です。(これはこのまま安部公房の世界なのですが、委細後日。)

ヨーロッパ人は、今こそ自分たちのバロック時代を想起すべきです。去年ドイツからバロック様式の建築の本を取り寄せて読み、最後のあとがきを見て愕然としましたが、このドイツ人のprofessorは、バロックといふ概念はあまりに多岐にわたり、定義することができないと、そのあとがきの冒頭に書いてゐるのです。今のヨーロッパ人は、バロックといふ概念を忘れてゐるのです、定義もできないといふひどい状態にある。勿論、この本の内容は良いものでした、しかし、それなのに、目の前に日常にバロック様式の建築物があるのにもかかはらず、さうだといふ現状は余りにひどいと思ひました。

大体キリスト教徒たる白人種の哲学者たちが、古代ギリシャのソクラテスを祖と仰ぐといふことが自己撞着です。何故ならば、古代ギリシャは多神教の世界だから。

今こそ白人種のヨーロッパ文明は、あの17世紀のバロック時代の精神を思ひ出すべきときなのです。さうすると世界中の多神教の諸民族(これが地球上の宗教の大多数だらう)とやっと話ができるやうになる。

キリスト教の正統派は、アリストテレスの論理学を、異端とされる人たちは、プラトンの哲学を選択したことも、やはり意義深いものがあります。後者はイデア論ですから、汎神論的存在論、前者はGodを主語に立てたら、この主語は唯一絶対で、あとは全て述語部に収まるといふ唯一絶対神の考へかたです。

後者は、主語と述語の関係は絶対的に固定して決して動かない。つまり言語論理の、思考論理の最初から持ってゐる再帰性(recursiveness)、即ち自己に回帰するといふ論理を禁じてゐるのです。これが言語からみた(安部公房の世界から見た)キリスト教の思考の限界です。それで、この500年を自分たちで大航海時代と呼びながら、私の言葉でいへば大虐殺時代の500年になったのは、この人類のそもそも持ってゐる本来の普遍的な思考論理を絶対的に、唯一神の名のもとに否定して来たからです。

長くなるといけないので一言でいへば、17世紀の哲学者は、唯一絶対のGodの存在を疑ったのですね。でもそれらの著作の表紙には、唯一絶対の神の存在証明のためになどと書かざるを得なかったのです。さうしなければ、ローマ法王庁に召喚されて、異端審問の裁判にかけられて、ガリレオのやうな目にあったのでせうから。

バロックの時代は、動乱の30年戦争のあったドイツの混乱を中心に、無秩序のヨーロッパでしたから、誰も彼もが、日本語でいふならば、神も仏もあるものか、とさう思ったのです。

バロックの時代とは何か、バロックの精神とは何かとひとことを卑俗な日本語で云へば、神も仏もあるものか、なのです。デカルトの精神、cogito ergo sumを、そんな風に言い換へることができます。

これはまた次回お会ひした時に詳細を。

3。貴君の引用してくれたバタイユの言葉へのコメント
バタイユ曰く:

「私達は歴史の中でしか存在[=生成としての動き]を捉えることができない。つまり、変化の中で、ある状態から他の状態への移行の中でしか捉えられないのであって、別個に次々に眺められた状態の中では無理なのだ。-エロティシズム-」

生成とは時間の中にあるものですから、あるいは時間によって生まれるものですから、バタイユのいふやうにいふことができますね。つまり、

「私達は歴史の中でしか存在[=生成としての動き]を捉えることができない。」

といふことです。しかし、そのやうな変化を捨象して、空間的に存在を考へることもできるのです。(これが安部公房の世界です。)

これが、このtweetに対する貴君のコメントですね。よくわかります、即ち、

「つまり実存はSein(ザイン・存在)とZeit(ツァイト・時間)の積だ。」

とどうしても言いたくなりますし、これが現実に生きることだと、つまり、積算といふ時間の存在しない空間(これは安部公房)と時間(これは三島由紀夫)を創造する計算のことをいふことになるのです。安部公房の言ひかたをすれば、このやうな積算値としての自己とは何かと云へば、それは、

存在(Sein)としてある自己のままに、即ち時間の中(変化の中)にある、更に即ち社会の交換関係の中にあって(社会とは時間の中では交換関係を人間に要求しますが)、いかなる役割も演ずることなく(役割を演ずるとは個人の分化ですから)、そのやうな交換関係のないままに生きること、これが実存であり、無償の人生であり、この人間のあり方を実存(これを安部公房は「未分化の実存」と呼んでゐます)といふのだ。

といふことになります。即ち、

存在(Sein)のままに時間(Zeit)の中で生きること

ですね。

貴君のいふ通りだと、私も思ひます。

「ハイデッガーに於ける〈現存在〉をバタイユはここで再定義したかったのだろう。」とあるのは、その通りです。

「しかも「時間」を〈歴史〉と言うことでバタイユの存在論はハイデッガーよりアナログになった。」とあるのは、これも、さうだと思ひます。

「エロティシズムの本質はアナログなのかも知れない」、ええ、エロティシズムの半面は、その通りです。そして、他方の半面は、「エロティシズムの本質はデジタルなのかも知れない」といふ真実です。前者は三島由紀夫の世界、従ひ西村幸祐は三島由紀夫の読者であり、他方、後者は安部公房の世界であり、かくいふ岩田英哉は安部公房の読者といふわけです。

僕の結論: 世界は差異である。

世界は差異でできている。これがバロックの哲学者や数学者たちの、神も仏も無い時代の、世界認識です。数学者としてのニュートンとライプニッツは微分と積分を創始しましたね。これらも差異に関する数学です。

考へてみれば、時間も空間も差異にほかなりません、勿論言葉の意味もまた差異なのです。これらのことは、あった時に話したい。

さて、といふ訳で、前者、即ち三島由紀夫の差異は、時間(時間は時差です)となって現れ、後者、即ち安部公房の差異は、空間(空間も差異、即ち隙間です)となって現れる。ともに、神聖なる差異であります。

前者の差異は河となって、三島由紀夫の愛唱したヘルダーリンの詩『追想』にあるやうに「豊饒の海」、即ち存在の中に流れ入り、若者は一人存在の海の、その永遠の航海へと出帆し、対して後者の差異は、安部公房が愛唱したリルケの詩にあるやうに、隙間となって神聖なる世界を荘厳する差異、即ち存在が其処に生まれる。

話は尽きません。

西村幸祐の健筆を祈る

岩田


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