2016年12月1日木曜日

再びIntelligenceが求められる21世紀の冷戦

再びIntelligenceが求められる21世紀の冷戦

西村さま、

昨日の貴君とのジョルジュ・バタイユ談義の続きです。

今朝の此の時間に二人のやり取りのジョルジュ・バタイユ談義にアクセスした数は、324でしたので、この数字はunique numberですから、このアクセス数は、結局324人といふことになります。

貴君の読者15万人の1%は1500人。325/150000x100=0。22%。

日本人で哲学を学ばうといふ人間の数は極めて少ないので、貴君の設定した1%は、良い数字です。私も社員教育をして、社内募集をして30人を超えて始まった月一度の哲学の教育機会に、1年が終わる最後の日に出席して残つた人数は、2人でしたから。この場合は、6%で、私は大成功だと思ひました。この二人のその後については知りませんが、しかし、さうではない人間たちと比べて、人生が大きく変はつたことでせう。勿論、それが哲学を学んだせいだとは決して気づかないわけですけれど。

考へてみれば、intelligenceとふ英語の此の言葉の意味は、最高機密に触れて、その意味、即ち暗号を、即ち目明か・目明きであるのにも関わらず、同時に、暗い符号・記号・画号といふ(普通の人間の目には明らかではない)目暗らの情報(この情報はinformation)を解読する能力を有する者といふ意味なのだなと、さつき別のことを考へてゐて思ひました。

つまり、intelligenceとは暗号解読能力のことなのですね。だつて、これは私たち人類の持つてゐる能力そのものですよ。『ダヴィンチ・コード』のラングドン教授みたいに、私が安部公房や三島由紀夫や村上春樹の暗号を解読したみたいに。(別に自慢していつてゐるのではありません。)

と、してみると、日本の教育は愚民教育だな。

更に低学年から英語を入れるとは、何たる阿呆どもか、今の政治家と行政府の役人どもは。Intelligence、即ち暗号解読能力は、自国の古典(これが暗号そのもの!)を読む能力を養わずに、個人のintelligenceも国家の(組織的な)intelligenceも育つわけがないではないか。勿論、その教育も含めて。

旧帝国大学の、文字の通りに最高学府東京大学といふ此の末裔の大学の試験に、このcodeをdecodingせよといふ設問一つにして、別にわざわざ会場に来なくても良いから、自宅で何日以内に解読して何月何日何時必着として、メールにpass wordを掛けて(これも暗号化!)、資料は何を選んでも(但し根拠として典拠は明示すること)図書館にいつて調べても良い、むしろこの調査・探究といふ未知のものへの探査能力を見るのが眼目といふことにするわけです。土星へ向かつたボイジャーみたいに。

日本語ができないで暗号解読能力、即ちintelligenceが欠落して、言語を「駆使する」ことなど不可能、大人になつてから仕事ができるわけがねえだらうと、まあ、西村殿、言いたくなるのです。

でも、0。2%、この数字は凄い数字ですよ。何故なら、どの領域の統計も見ても此のパーセントは有意義ですから。

この人たちの年齢構成を知りたいけれど、多分今の日本の庶民の中に無名で隠れてゐるデカルトみたいな人たちだな、この人たちは、きつと。デカルトの座右の銘ふたつの内の一つは「よく隠れた者こそ、よく生きた者である」(bene vixit, bene qui latuit)といふのです。この0。2%で、今の日本の国は密かに保(も)つてゐる。勿論有名になつて(貴君みたいに)表舞台で活躍してゐる人たちも含めてですけれど。つまり、心根(こころね)のことがいひたい。でも、表舞台にゐる人たちが、このintelligenceといふ能力を密かに(密かにだよ)持つてゐることを、目暗らの人たちは知らない。

といふことは、20世紀の後半に、インターネットの登場する前後から流行して(今もさうで)ある、俗にいふ高度情報社会の興隆期に言われたinformationといふ言葉は、情報処理能力が要求されてゐたからだといふことが判りますね。だつて既成・既存の(国家から要求される)能力は、既に与へられた情報(information)の範囲で既知のことを処理する能力(intelligence)だつたといふことだから。だから、informationがintelligenceの優位に立つて、世界中に流布したのですね。

その情報は、コンピューターが計算して提供してくれる。しかし電子計算機にintelligenceは、ない。つまり計算処理能力だけの話の中での電子計算機だつた。だから、単位時間あたりの量的処理能力だけを人間は問題にしてコンピューターを設計開発して来た。

しかし、やつと、時代がまた元に戻つた。つまり冷戦時代の物語の主人公007のやうなintelligence(諜報)の物語を位相を変えて変形し、次元を一つ上げた物語が大当たりになる時代が来たといふことです。即ち、暗号を解読する物語の時代だといふことです。

といふ風に考へてくると、今人間に求められてゐる能力がとてもよく判りますね。国際政治も、国内政治も、国内外の経済のことでも、AIの飛躍的進展の理由も、といふよりも、AI(といふ此の外在化した私たちの脳)の自律的飛躍・飛翔から観える近未来の世界像のこと等々も。

情報時代、information時代の終わり、そして知識・諜報時代、暗号解読時代 、intelligence時代の始まり(もう既に始まつてゐる)。知識とは、体系化されたものですから勿論贅語ですが、しかし、体系的知識といふ意味です。後者は私の上の言葉でいへば、探査時代の始まり、調査・諜報時代の始まり、暗号解読時代の始まり。といふことは、何だ、何といふことはない、

再(ま)た、冷戦時代に戻つた

といふことになるではないか。

今度の冷戦は一つ上の次元の冷戦ですね。新冷戦時代。今度は、どこの国とどこの国のCold Warであるのか?

としてみれば、日本がCool Japanと白人種に呼ばれてゐて世界に広まつた、それも汎神論的キャラクターや映画や(日本語の小説に汎神論的な小説はありやなしや?あるとすれば、絶滅危惧種「純文学」ではなく)SFといふ日本民族産の文物が、紅毛人にとつてcoolだとといふことですね。最近の映画『シン・ゴジラ』も『君の名は。』も然り。前者は老若男女が、後者は若者たちが熱心なのは、やはり「ヤマト」民族の暗号を解きたいといふこと(松本零士の「宇宙戦艦ヤマト」も此の一環であり此の 先蹤せんしょう))、古典を神話を読みたいといふことを示してゐます。今の教育は、この社会的な欲求から言つても、阿呆教育、愚民教育です。一体私たちは誰のために生きてゐるだ?日本国民はキリスト教徒ではない。

この文脈の中にある私たちにとつて、日本がcoolであるとは、八百万の神と一緒に毎日暮らしてゐるといふこと、当たり前のことです。英語のcoolといふことから、もつと厳しい冷たさであり寒さであるcoldといふ英語があることを考へてみる、

と、このやうに考へて来ると、Cold Warとは、国家間の対立も含み、21世紀の今は、人間間の対立をいふことも十分に意味してゐるのではないだらうか。つまり、Globalism対Nationalismも、その一環の地球的な動きなのではないだらうか、と、まあ、ここから先は貴君の領分なので、お任せします。

Globalistは、information(情報)を処理して(今大流行中の政治・経済の、「増すゴミ」(由緒正しき名前は"mass communication")メディアによるデマゴーグもこれに入る)世界を支配したいといふ輩、ただただ資本主義の原理に倣つて金を儲けるために、金儲けが自己目的と化した輩。対してnationalistは、intelligenceを駆使して、近代の、白人種以外の地球上のすべての民族にとつての相変わらずの不変のテーマ、即ち民族の真の独立を図りたいと願ふ当然の人間たち。

といふことからいつても、やはり日本語の教育に力を注ぐべきは、古典教育、即ちまづ日本の神話を読ませること、古事記、万葉集、伊勢物語、大和物語、源氏物語、それから漢文と素読。即ち大政奉還から此の150年に及ばうとする(たつた150年!)日本の近代国家を可能ならしめた江戸時代の日本人の教育に戻ることといふことになるではないか。この江戸時代の日本人の深い教養の蓄積の上に、今の日本の国がある。(松尾芭蕉の俳諧は此の教養の上にあつて素晴らしい。)これを貴君に、今執筆を予定してゐる著作の中で是非論じてもらひたい。

先の敗戦後の阿呆政治家、阿呆官僚どもが此の教育を放擲して来たから(しかし、これはまた阿呆日本人どもの罪である。何故なら「戦後」民主主義の国であるから。以後「敗戦後」民主主義と呼ぶがいい)、若者たちは、古くはウルトラマンや仮面ライダーに、新しくはガンダムやエヴァンゲリオンに、これら英雄の物語に惹かれてゐる。おまけに、同じ原因でオウム真理教といふカルトまで出て来て国家転覆を図ることに至つた。テロリズムを、知らず知らずのうちに、日本の内国教育が産み育ててゐる。阿呆国家ニッポンである。と、段々語調が激しくなつて来たので、ここいらで止めます。

貴君に向かつて書くと、いろいろなことを、かうして考へて、新発見がいつも一杯あるなあ。ありがたう。

では、また、書きます。

その後のアクセス数の数字の推移はまた連絡します。今までの経験から見ますと、大体三日が目処ですね。0。3%に近づいたら大成功です。

本件ご返信ご無用。忙しき貴君なればなり。


岩田

追伸

日本の庶民が、「敗戦後」民主主義の時代に、(今や死語である)インテリなどと略称して呼んだのは、正解でしたね。これ庶民の知恵なり。何故なら、intelligenceが欠けてゐるから。次のinformationの定義がネットにあり。

「インテリまたはその原語であるインテリゲンチャ(ロシア語: интеллигенция、Intelligentsia、インテリゲーンツィヤ)とは、知識階級を指す言葉。なおそのような立場にある個人を知識人ともいう。対比語の多くは大衆(民衆)。」(vhttps://ja.wikipedia.org/wiki/インテリ)

この語源を読み解いても、その当人にintelligenceのあることの証明にはならないことを註記します。



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