2016年9月23日金曜日

シン・ゴジラと関係するその他の大切なこと

シン・ゴジラと関係するその他の大切なこと

この文章はある読書会での、シン・ゴジラを巡る議論と疑問に関して回答した私の、この映画に関する解釈ですが、一般化してそのまま読むことができるように私の考へを示したものです。お読み下さると、嬉しい。

1。海外でのシン・ゴジラの評判
今日本語圏での海外のシン・ゴジラ評を見ると、海外で評判が良くないと書いてありますが、しかし、私はこれは疑わしいと思っています。何故ならば、次の日本語の記事があるからです:http://lineblog.me/dessart/archives/10320685.html

「一方、ハリウッドでもゴジラ映画の製作が進んでいる。1998年に最初の米国版「ゴジラ」が公開。

 その後、2014年にも米映画会社ワーナー・ブラザースが「ゴジラ」を公開、現在この続編「ゴジラ2」がスタンバイ中で19年3月の封切りがすでに決まった。翌20年には「ゴジラvsキング・コング」の公開もすでに決定している。

 また来年、全米公開されるキング・コング映画「コング:スカル・アイランド」には、ゴジラが“カメオ出演”するとの情報もある。」

このやうにアメリカで既に本日現在で計画されてゐるアメリカ製のゴジラがあるのに、ゴジラといふものがアメリカで嫌われてゐるわけがありません。勿論、日本製のゴジラがアメリカ製の、ハリウッド映画の薄っぺらい、ただ興奮し感激してお終ひといふ怪獣怪物映画になり得ることはあります。

2。シン・ゴジラとアレゴリー
私はシン・ゴジラアレゴリー(寓話)とは見ていません。志水義夫先生の論じたゴジラのやうに多義的な存在と見ています。しかし、アレゴリー(allegory)という英語の意味も、今辞書を引くと、a symblic representationとありますから、日本語で言う寓話とは少し異なっていますね。英語の意味ならば、yesですが、更にしかし、一つのゴジラが"symbolic representations"を体現しているという意味です。シン・ゴジラは、そのような多義的で且つ統一感のあるゴジラになってゐると思ひます。

それに、私はいわゆる寓意や寓話でそもそもは理解する人間ではないのです。私は散文の修練をして来た人間で、社会の中でこれを追求してきた者ですので、文学の世界に戻って来て、叙情的に、また先生のいふ括弧に入れたポエムの中に入ることは、感じる人間として、できますが、それに浸かって生きる人間ではないのです。勿論、私も「ポエム」といふ通俗的な叙情を知ってをりますし、否定してゐるのでは全然ありません。

西脇順三郎を例に引いたのは、安部公房の課題図書になってゐる「赤い繭」といふ作品を読むときに、この問題が必ず出てくると予測したからです。アレゴリー(寓話と訳したallegory)か、隠喩(metaphor)か、事実か。といふ議論です。それを事前に提示しておきたかったのです。茄子は紫の瓢箪である、といふ一文は、果たしてallegoryか、metaphorか、事実か?といふ問いです。私の回答は、もちろんこれらは言葉ですから、その意味はcontextによるといふものです。つまり、言葉のつかひ方に依るのです。どの場合もあり得る。逆に、アレゴリー、隠喩、事実である場合のcontextを創造することが、議論をする私たちの仕事になるでせう。それについて考えることが。

私は散文家ですので、常に例外なく、一義的には言語的な現実、即ち言語による事実の創造を考えてゐます。Elias Canettiのいふ第二の現実、即ち現実と等価交換可能の事実からなる現実です。

3。詩とは何か
ええ、西脇順三郎の詩論で言いたかったことは上の通りですが、他方、それが読者という他者に何かを喚起させることに、その使命のあることも、全くその通りです。それを、Canettiは第二の現実と呼んだわけです。安部公房は、藝術家といふ人間は言葉によって存在すると言いました。これが、この言語藝術家の人生を貫いてをります。三島由紀夫は同じことを、言葉が最初にあり肉体が遅れてやって来たと言いました。

4。再度シン・ゴジラとは何か
私も、志水先生のやうな神話の生き物としてシン・ゴジラを読んでゐます。あれは、最後に、意図的な時間の長さを以つて映し出される焼け焦げた、天に向かって手を差し伸べて苦しむ原爆で虐殺された死者たち、その他の大東亜戦争で死んだ死者たちの姿であることから、

(1)無辜の民として死んだ、本土の日本人たちの集合:アメリカによる国際法違反の犯罪の大空襲と二発の種類の異なる実験的な原爆投下
(2)従軍して死んで、死者となった英霊たちの集合、従い、御霊を祀るといふことから、
(3)全国にある神社と神々、従い、八百万の神々の集合、また、
(4)(1)と(2)のことから、関西の大震災と関東の3.11で亡くなった方、死者たちの集合
(5)(4)の自然による、即ち人間が制御できない大災害と、それが原因で起こった原子力発電所の事故で被災した方たちの、又同時に私たちの、恐怖の感情のrepresentation(対応・照応関係を体現したもの)

といった事柄を実にバランス良く統合的に表現されたゴジラ、それ故にシン・ゴジラだと思っています。

これらの過去70年間といふ時間が、一つのcontextと(1)から(5)をまとめて一つにいふことができるでせう。他方空間的には、この映画の素晴らしさは、地球的な規模に及んでゐることです。日本一国で解決ができないゴジラというのは、今までのゴジラとは違いますね。シン・ゴジラです。

これは、Sさんと全く同じお考へです。

6。ヨーロッパ白人種のGod
ニーチェが『Zarathustra』の中で、God ist tot (=God is dead)といふ、キリスト教徒にとっては恐ろしい一行を書いてから、白人種の唯一絶対のGodは、言葉の上では、死にましたが、しかし実際にはどうか、もしGodを信仰しないとしたらどうなるかということが、近世17世紀のバロック時代からの本格的な、これは探究であったといふのが、私の結論です。それで、

(1)資本主義
(2)民主主義
(3)哲学

これらが生まれた。

(1)は経済形態、(2)は政治形態、(3)は思考形態です。

これらの最上にあるのは、(3)の哲学です。(3)の下に諸科学がある。

唯一絶対のGodから逃れてものを考えると、今詳細は省いて結論を言いますと、汎神論的存在論に向かいます。これは思考論理の必然で、何故奴ら紅毛人が、哲学の始祖を古代ギリシャの、即ち多神教の世界の人間に求めたのかといふ理由と心理と、それからやはり人間として自分の頭を使って考えた場合の論理の帰結する方向を示してゐます。さう思ひます。

キリスト教の絶対唯一のGodを立てたことの思考欠陥は、再帰的な論理を絶対的に否定し、排除したことです。従い、キリスト教徒その影響下に生まれた資本主義、民主主義、そして(誤解を恐れずに言えば)哲学までもが、キリスト教といふ一神教と一緒にやってくる限り、侵略的です。つまり、現下の言葉で言えば、globalismです。何故ならば多神教の世界の人間には、そのような哲学は、そもそも生まれつき不要であるからです。つまり、その哲学のむかふ汎神論的存在論は、すでにキリスト教やユダヤ教やイスラム教といふ一神教以外の多神教の宗教では当たり前のことで、八百万の神々の古代的な世界です。神社に各地でお参りする私たちの、実は普段の日常感覚です。これを「皮膚感覚」と呼ぶなら、さう呼んでも良い。

上記5との関係では、カントの「崇高」は、Godの存在しない場合の、やはり神聖性を求めたものでありませう。それは、キリスト教の世界では神話の英雄がゐなくなったことを日常的感覚では意味しますから、さて、英雄のない時代に如何に「崇高」ではない、英雄的にではない個人の死を如何に死ぬかといふことが、1900年に死んだニーチェや、その時25歳であったリルケやトーマス・マンの課題でした。同様に、八百万の神々の世界に住みながら、(1)資本主義(2)民主主義を100数十年前に持ち込まねばならなかった(そうでなければ白人種の植民地となって日本もまた収奪の限りを尽くされてゐたことになってゐた筈の)日本である以上、三島由紀夫や、安部公房の課題でもありましたし、二人以外の作家にとっても、さうであったのです。

安部公房の「赤い繭」や「魔法のチョーク」を、このやうなcontextで読むことは、勿論可能です。そのように生きようとした人間がどのような論理で、どのような感情で、これらの関係をどのように考えて生きようとしたかを、これらの作品から読み取ることができます。その解決策もまた。

7。モダニズム
実はモダニズムについては、私は無知です。言葉は知っておりますし、西脇順三郎はモダニズムだという言葉をどこかで読んでこともありますし、今に至るまで戦後を引きずって残っている(ここまでは私の意見)思潮社といふ詩専門の出版社もモダニズムだと正津勉さんといふ詩人が発言したのを目の当たりに聞いたこともあります。

モダニズムとは何かです。

今Wikipediaを見ると、

「モダニズムは20世紀以降に起こった芸術運動、特に第一次世界大戦以後(戦間期)の1920年代を中心にした前衛的な動向を指す。 従来の19世紀芸術に対して、伝統的な枠組にとらわれない表現を追求した。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/モダニズム

とありますので、これは「伝統的な枠組みにとらわれない表現」といふ限り、それは一番徹底的には、時間を捨象した表現となります。リルケがそうでしたし、トーマス・マンがそうでしたし、安部公房も三島由紀夫もそうでした。

しかし、これらの藝術家は果たしてモダニズムなのでせうか?時間を捨象して空間的に言語の構造の有機体(第二の現実)を創造するこれらの人間は、モダニズムという時代限定の考え方から、時間を捨象するのですから、無縁であるといふのが、私の考へです。

同じことが、敗戦後の日本にもあって、猫も杓子も、前衛前衛といい、アヴァンギャルドアヴァンギャルといひ、実存主義実存主義といひ、マルクス主義マルクス主義といひ、これらは、白人種のキリスト教の世界では上述の歴史から言っても意味がありましたが、八百万の神々の私たち日本人の世界では、そもそも不要ですから、当然のことながら、すべての思想が時代制約的な流行で終わりました。団塊の世代は今もこれら白人種の思想に依拠して毎日必死に生きているのか?左翼といふ白人種にとって(資本主義と民主主義に対して)歴史的な価値ある用語ですら、既に日本にあっては死語ではないか。

確かに凡百の「命脈は尽きている」のです。全く同感です。安部公房の同時代を生きた、若い時に生きの良かった、しかし年をとってただそれだけで、若さに頼って生きただけだということのわかる、つまり時代的な制約のある友人のゐることを私は全集を読んで知ってをります。

8。ポケモンGOとゆるキャラ
上記7の文脈(context)においては、ポケモンGOは、八百万の神々が意匠を変えて、登場したことの事実ではないだろうか。そうだというのが、私の考えです。ゆるキャラもそうです。

これらの可愛い怪異の生きものが、土地土地に現れるといふことに、白人種ならば地霊、genius loci(ゲニウス・ロキ)を、即ち古代の多神教の世界の神々を思い出してゐるのではないだろうか?ゲルマン人ならば、ケルト民族の末裔ならば、いやそうでなくとも、さうでありませう。哲学の始祖を古代ギリシャのソクラテスに求めた欲求。これと同じ欲求が、実はcool Japanと英語で呼ばれる、日本の文物の世界的流行の本質なのではないか?

先だって、国際会議のために日本に参集して、白人種キリスト教徒たちの国々を代表する首脳たちが伊勢神宮に参拝したといふ事は、20世紀型の一斉同報大量情報提供型のマスメディアは一切論じることが不能であったが、神話と神々の古代の世界との関係で世界的・世界史的、文明史的・文明論的に見れば、これは人類にとって一大事件であったのではないか?シン・ゴジラが、アメリカから初めてやってきて日本に上陸して、そのやうな解決策を人類に要求したのと全く同じことであるやうに。

シン・ゴジラも、このcontextで、実はシン・ゴジラを見る各国の人間の深層心理には、あるのではないか?ただし、アメリカ人にとっては、戦争の記憶があるので、アメリカ人が評価しないか誤解をするか魅力を感じない可能性(possibility)はある。アメリカの公開が10月といふ(日本公開とほぼ同時の)早い時期に、しかし440館といふ限定をつけて、公開されるということは、何かそのあたりの事情を、アメリカという国の心理を暗示しているのではないか?といふのは推測でありますから、これは引き続き観察を要します。

追記:
Cool Japanといふ呼称は、実は日本がcoolであるのではなく、日本といふ国とその文化・文物が、英語でそのやうに呼ぶ国々と人々にとってcoolであるといふ意味であり、そのやうな使いひ方であり、従ひそのやうな文脈、contextであることがわかります。つまり、一神教の世界が多神教の世界、八百万の神々の世界、即ち日本、21世紀のジパングを、必要としてゐるといふことになります。以下、私の愛用するWebster Onlineから:http://www.merriam-webster.com/dictionary/cool

Simple Definition of cool

  • : somewhat cold : not warm or hot
  • : made of a light, thin material that helps you stay cool
  • : able to think and act in a calm way : not affected by strong feelings

Full Definition of cool

  1. 1:  moderately cold :  lacking in warmth
  2. 2a  :  marked by steady dispassionate calmness and self-control <a cool and calculating administrator — Current Biography>b  :  lacking ardor or friendliness <a cool impersonal manner>c  of jazz  :  marked by restrained emotion and the frequent use of counterpointd  :  free from tensions or violence <we used to fight, but we're cool now>
  3. 3—used as an intensive <a cool million dollars>
  4. 4:  marked by deliberate effrontery or lack of due respect or discretion <a coolreply>
  5. 5:  facilitating or suggesting relief from heat <a cool dress>
  6. 6a  of a color  :  producing an impression of being cool; specifically  :  of a hue in the range violet through blue to green














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