時間泥棒3 ー時間と空間の交点ー
【時間泥棒の定義】
時間泥棒とは、他人の時間(という財物、財産)を盗む者である。特に誰にも知られることなくこっそりと、又は秘密裏に盗む者、また更に、そのような盗みまたは窃盗を専らの業となす者である。
ある時、あるセミナーに出席して、帰り道の途上、オークションについて考えていて、オークションとは何かという問いに答えることが、ある程度、というかわたし自身にとっては、かなりの程度、できたと思ったことがありました。
この経験を思い出して、時間泥棒とは何かという問いに関係して考えてみます。
わたしは、輸入のオークションをやっているのですが、この場合の問いは、
オークションとは何か、です。
それから、何故わたしはオークションにある心地の良さを感じているのかという問いに対する答えです。
確かに、わたしのこころの内を振り返ってみると、わたしはオークションが好きなのだということがわかります。
言い換えれば、オークションが性に合っている。
それは何故だろうと考えたのです。これは、セミナーのテーマとは直接には全く関係がありません。
しかし、どこかで脈絡が通じているのでしょう。そう思います。
さて、わたしは人と会う約束をして、ある時刻にある場所で会うというときには、必ず1時間前に到着するように計画をし、その通りに実行します。
それは何故かその時刻という一点に拘束されることが嫌(きら)いだ、嫌(いや)だという感情があるからです。
一点、その時刻の一点に神経が集中すると、その時刻以前の、その一刻までのすべての時間が無価値になると思われるのです。それ以前の時間のなかにいて物事に集中することができなくなるのです。
この無価値になるという感覚、集中力を喪失してしまうという事実は、非常な、普通以上の焦燥感としてわたしの中に鬱勃として起こり、継続し続けるのです。
これは、誠に堪え難い。
わたしと全く同じ人間に、アンデルセンというひとがいます。
あの童話で名高い、アンデルセンです。
この人の伝記めいたある記述を読んだときに、この作家が駅を汽車が発車する1時間前に必ず到着するようにしていたと書いてありました。あるいは、数時間前と書いてあったかも知れません。
これを読んだとき、わたしはアンデルセンという人がどういう人なのかが解りました。
わたしと全く同じ人間、同類なのです
このひとの作品の底流には、非情な、辛辣な人間に対する見方があると、わたしは思っています。
童話は全くそのような見方を裏切っているかのようですが、そうではないと思います。
同じように、人間とその人生を辛辣に見るならば、ガリバー旅行記を書いたスイフトもまた同じかも知れないと想像したりします。
いづれにせよ、わたしは彼らの仲間、彼らはわたしの仲間なのです。
さて、そうだとして、オークションの本質とは何でしょうか?
それは、ある場所(それは、言うまでもなく、オークションを開催する場所です)で、その一点の時刻に向かって、人間の判断と感情と計算と、従って価格の相場が、その一点を目指して、嫌が応でも収斂し、終結すること、このことそのものに潜んでいます。
即ち、その時刻の後が、その商品の値段、即ち相対的な価値にとって、存在しない。
その一点において、ものごとは終結して、交換原理が働く。売買が成立するということです。
その時点で、需要と供給が一致するのです。
オークションは、売買の一形態、一変形の形態です。いや、見方によっては、資本主義の核心にある売買形態です。(株式相場は、オークションの一種である。)
さて、ある時刻にある場所、時間と空間の交差した一点で、わたしがひとと会う事を恐れるのは、それは何故なのでしょうか?
それは、その時刻にそこにいっても、わたしは交換原理に裏切られるかも知れないと思っているのではないかと、その心理を考えてみます。
あるいは、わたしは普段子供の頃から、交換原理の支配しない世界に住んでいたという解釈も成り立ちます。交換原理の考え方をそもそもしていなかった。これは確かに事実としてそうです。
わたしがオークションが性に合っていると感じ、ある種の心地よさを覚えるのは、結果の落札額がどうあれ、その時刻に疑う事無く、間違う事無く、何の行き違いもなく、必ず、必然的に、ものと価値が交換されるから、買うよといい、いいよという意志が二つとも一致して、過つことなく約束が守られるからです。
そうして、そのことを、物事が始まる前から、既に知っているということ、これが大切なことで、これがわたしの安心の原因なのだと思います。
時間の外に出ようとして努力して来た人間が、時間に支配された、その場(オークション)の出来事に安心するということは、何か矛盾しているようにも思いますが、しかし、時間はこの次元(この世)では、無限に続くように見えながら、他方、オークションでは絶対的な意志が働いて、時間を切断し、ぶった切って、物事が100%終わる。
これが、わたしのオークションに対して有する安心感そのものなのです。
しかし、ひとと約束したときには、いつも約束された一点において約束が成就するとは限らない。
これが、現実の不確定なところです。
わたしは、わたしの意志に発し、その意志に基づいて、こうしたいと思い、こうしたいと思うと、目的が生まれ、目的が生まれるとそのための手段の順序を逆算して考え、時間の順序に従って、計画を立てます。
しかし、その計画の目的を達成するまでの間に、色々な邪魔が入る。
この邪魔の最たるものは、時間泥棒である。
(わたしの次元の中の意識がーあるいはわたしの意識の次元がー突然破壊されて、別の次元の時間に接続されることを余儀なくされる。)
というよりも、時間を泥棒するならば、計画遂行の邪魔となるものは皆時間泥棒である。
【時間泥棒の定義】
時間泥棒とは、他人の時間(という財物、財産)を盗む者である。特に誰にも知られることなくこっそりと、又は秘密裏に盗む者、また更に、そのような盗みまたは窃盗を専らの業となす者である。
こう考えて来て、この定義をつらつら眺めると、人間は一人で生きているのではないので、必ず個人の計画には邪魔が入るということになる。
いや、まてよ、ともうひとりのわたくしはいう。
人生における時間の絶対量は決まっているのだろうか?という疑問が浮かぶのです。
物理的な時間の量は、平均で計算されて、寿命何年と言われている。これは、世間の考え方である。
わたしは、自分自身の人生を平均値で考えたことが全くない人間であることを知っている。だからどのような、量を基準にして計算した人生モデルからも、規格外であり、外れている。わたし自身がそのような規格外の人間であるし、その家族も規格外である。
それは、わたしの、あるいは個人の人生の時間の質ということを考えて来たからだ。
この人生の質という観点から物事を考えると、単に時間の絶対量の奪い合いという考えはなくなる。
それでも、人間は愚かで、慾があるから、ひとの所有している(と思い、そのように見える)ものを奪はうとするので、争いは無くならないだろう。
そのように考える根底には、
1。ものは与えられているという考え
2。それらのものは、誰のものでもないという考え
という考えが無意識に潜んでいるだろう。
法律的な制度で暮らしているわたしたちの意識の根底には、このような意識があるということは、いつも社会を不安定にする。それが大きな社会であれ、小さな社会であれ。
と、このように考えて来る、そうしてまた定義を眺める、そうすると、やはり、だれもが時間泥棒になり得るということになることを知るのだ。
そうすると、時間泥棒の存在が可能性の世界にいる間に、逃げるか、回避するか、シャットアウトするか、その可能性の影響力を排除する手だてをうつということが大切だということになるだろう。
あるいは、可能性の世界でそれらの手だてが失敗したら、少なくとも蓋然性 (probability)の世界で、再度それらの手だてを講じることが大切だということになるだろう。そうでなければ、時間泥棒の出現が現実になってしまう。
いよいよ話が具体的になって来た。さて、実際にどうやって時間泥棒を撃退するのかという話が、次の話になる。
わたしの人生の計画がどのようなものであったかを振り返って、時間泥棒撃退の話を論じてみよう。
(この稿続く)
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