2012年11月21日水曜日

孤独の時間について


わたしは老子が好きだが、老子にも孤独な時間があったのではないかと思うし、思ってみて、思うことができる。老子の道徳経を読むと、その開巻第1章にその影は濃厚である。そうして、その第1章に老子の思考と宇宙のエッセンス(本質)が書かれている。
イエスキリストというひとも仄聞するところ、求めて一人で荒野に出て行き、孤独の時間を持った。魔物と戦ったのだという。
釈迦も、悟りを開くために、求めて人を断ち、孤独の時間を持った。やはり、魔物と戦った。
どんなひとにも、この時間、孤独の時間、本当は絶対的に孤独の時間といいたい時間があるのだ。今なければ、いづれ訪れることだろう。
人生の積分値は変わらないという考えを聞いたことがある。
あなたにも、必ず孤独の時間が訪れるものだし、あなた自身が自ら必要とする、そのような契機がやって来ることだろう。
わたしの場合には、10代の終わりから20代全般に掛けて、この時間を徹底的に経験した。求めて味わった。
毎日が暗闇で、光一筋射さなかった。顔ではいつも笑っていたが。
すべてを疑って、全くの白紙から自分自身と人間と社会と宇宙と言語の本質を考え、極めることが、わたしの決心と探究のすべてだった。道徳も倫理も、すべての規則をも、自分で構築しようとした。全てを捨てていたのだ。
毎日生きなければならず、生きていれば歩まねばならない。毎日毎日一歩踏み出すその一歩に全く自信がなく不安で不安でたまらなかった。どっちの方角に向かっているのか全く解らなかった。見当すらつかなかった。光りが全く射さぬ暗闇であった。
今、毎日毎日苦しんだことだけは覚えているが、苦しみそのものの実感はもう忘れてしまった。日本を離れて、何故こんなことをしなければならないのか、その苦しみの余り、湯船につかって、涙したことがある。
この孤独の時間の苦しみを、誰にも伝えることができない。
今は、もう苦しむことはない。答えが出たのだ。
一条の光が射したので日本に帰って来たが、そこから、まだ道は遠かった。
しかし、今こうして書く事ができているのである。
生きているということだ。

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