2017年2月1日水曜日

ポスト真実(2):ピューリッツア賞受賞『黒い旗』

Schwarze Flaggen Der Aufstieg des IS und die USA

これは今月ドイツで出版されるISとアメリカ政府の繋がり(アメリカ政府によるISへの支援)について書いた本で、この著者のJoby Warrickは、ドイツ語の紹介記事によれば、1996年以来ワシントンポストの記者とあり、この本で二度目のピューリッツア賞を受賞してゐます。Pulitzer.orgのウエッブサイト上の著作に関する発表記事です:http://www.pulitzer.org/winners/joby-warrick

ドイツ語訳の題名を日本語にすると、『黒い旗』となり、副題が「ISの台頭とアメリカ合衆国」となります。英語の原題は、『Black Flags: The Rise of ISIS』:https://www.amazon.com/Black-Flags-Rise-Joby-W…/…/0804168938

ドイツ語訳が2月に出るといふ事は、既にアメリカの国民は此の著作を読んでゐる訳ですから、出版が2016年であつて、授賞式が同年の 4月18日である此の著作をアメリカのジャーナリズムが読んでゐないわけがありません。現にニューヨークタイムズの書評の言葉が英語版の表紙に印字されてゐます。

といふ事は、オバマーヒラリーが敗北し、トランプが勝利して大統領になつたについては、少しも番狂わせなのではなく、この本の深い影響もあるのではないでせうか。

今Googleで検索しても、この本の日本語訳の気配はありません。日本のジャーナリズムは、読んでゐないと考へられます。英語に堪能なジャーナリスト以外は。しかし、それでも読んだといふ声が上がらないのは、日本には知られてゐないといふことなのでせう。

この方面からの報道を、ネットのメディアに期待をします。地上のメディアの言語能力と読解力には全く期待をしてをりませんので。


ISの使用してゐる「黒い旗」または「黒旗」の意味については、このURLで知ることができます:http://ikeuchisatoshi.com/i-1203/

2017年1月29日日曜日

「ポスト真実」とは何か:現代の情報空間について

欧米のジャーナリストたちが今、現代の情報空間の特徴を「ポスト真実」と呼んでゐるさうである。これを聞いて知った、言語の世界から眺めたわたくしの感想は以下の通り:


現代の情報空間の特徴を「ポスト真実」と喝破した欧米のジャーナリストの見識とセンス、だとは私は考えません。

何故なら、これまでもポスト・モダンと言ったり、ポスト何何といふ名前をつけて
欧米人は来ましたが、これは結局私の所見によれば、ものを考えないことからくる苦し紛れの命名なのです。

ポストがあれば、プライアー(piror to)があるわけで、何を言いたいかと言いますと、時間の中でだけ、時間軸だけでものをかんがえようとすることから逃れられてゐない欧州人、白人種の当座の凌ぎであらうと思はれます。

この大陸の白人種たちは、学問の分野にあっても、異領域や隣接領域との知識の共有をしておりません。やはり欧州にも社会的組織的に知的劣化が起こってゐるのだと考えてゐます。(この根拠を言えば話がながくなるので省略しますね。)

ですから、今Wikipediaを参照しますと、次のやうにあります:

「ポスト・モダニズムという用語自体は1960年代にも確認することができるが、ポスト・モダニズムという用語が今日的な意味で使用されるようになったのは、チャールズ・ジェンクスの『ポスト・モダニズムの建築言語』(1977年)が最初であり、建築・デザインの分野で盛んに用いられた。ジャン=フランソワ・リオタールが『ポストモダンの条件』(1979年)を著すと、フランス現代思想界に大きな影響を与え、その影響はアメリカを中心に広がりを見せ、やがて分野を超えて大きな時代の潮流を形成するに至った[2]。」

この説明を見ますと、既に1960年代に予兆あり、1977年には大ぴらになった(欧州において)といふことになります。(私が上で述べた判断の根拠も、やはり建築の世界の様式についての概念を定義できないドイツのprofessor(professorですよ!)の著書を読んで知ったことです。もちろん、著書自体は素晴らしい欧州横断的な説明と資料の満載の良い本でした。つまり、しかし、この大学教授は自分の専門において体系的な分類と叙述ができないといふことに結果としてはなりますね。)

1977年には遅くとも、欧州の知的劣化は明瞭に専門家たちに意識されたといふことになります。今欧州の統合体であるEUの歴史と関係がないかと見ますと、Wikipediaには、次のやうにあります:

「• 1958-1969年
フランスのシャルル・ド・ゴール大統領の影響が大きい時代。欧州統合の国家連合的性格が強まった時代。
1970-1985年
1970年の欧州政治協力(EPC)の発足、経済通貨同盟(EMU)の試行や、1979年の欧州通貨制度(EMS)の設立、それに伴う欧州通貨単位(ECU)の設置などに見られるように、欧州統合の進展は見られたものの、2度の石油危機もあり、それぞれの欧州国家は内向きであった時代。」

この記述を見ますと、欧州の統合と何か符節を合わせてゐるやうに理解することができます。欧州の統合と共に、ポスト・モダンが現れた。つまり、globalismの完成してゆくプロセスの中で、ある一線を超えて現実性が高まって、可能性が蓋然性になった時に、

とすると、欧州のポスト・モダンが現れた。といふ事が出来るのではないでせうか。

とすると、今や2016年の英国のEU離脱の事実と現実を前にして、欧州の統合が危殆に瀕してゐる時に、「ポスト真実」”post-truth”が問題になってゐる。事実そうであり、トランプの大統領就任は、 アメリカも含めたglobalismの崩壊を意味してゐます。

今度の、欧州人やアメリカ人、即ち白人種による命名が、post-modernといったやうな時代区分に関する命名ではなく、物事の理非曲直、即ち真理、truthといふ人間の思考の根底、根本に関する命名であるといふ事が、田尻さんのおっしゃる「現代の情報空間の特徴」を明らかに言い表してゐると思ひます。

これは、欧州文明にとっては危機的な状況です。

ですから、本来ならば、近代に確立した哲学の歴史に戻って、言語と論理と思考の領域での、彼らの学問の上での最高度な思考の階層での見直しをなすべきなのです。即ち、この方面からいっても、globalismといふ共産主義(communism)の見直しです。これをやれば、コロンブスがアメリカ大陸を発見したのではなく、誰がコロンブスを発見したかを論じ、自らの近世近代の罪深い歴史を反省することになるでせう。これは、良いことであり、今起きてゐることの、それこそ時代の趨勢であると私は思ひます。

としてみれば、上の言及したドイツの建築の専門のprofessorが学際の共有をしてゐないといふ知的劣化のことと同じことが、やはり政治と経済で起きてゐるといふことになります。


Globalismが学際的な国を超えた共有を劣化させ、anti-globalismが、これを求めるといふのは、皮肉といえば皮肉ですが、しかし、これは逆説などではなく、これこそ真理、truthであると私などは思ひます。何故ならば、差異のないところに共有はありえないからです。この差異を同類の別の言葉で言い換えても変わりません。民族自立自決といい買えると、今とこれからの日本の少なくとも数百年を考える議論になりますね。そのやうな議論をすることを、もはや増すゴミには期待してをりませんので、ネットメディアにはお願いをしたいと思ひます。

2016年12月10日土曜日

ユーラシア大陸の東と西で何が今起きてゐるのか?

ユーラシア大陸の東と西で何が今起きてゐるのか?

今、ある文章を読んで、ふと思つたのだが、中華人民共和国といふ中華思想とマルクス主義を体現した中国共産党の支配する国の貨幣価値の崩壊は、ヨーロッパ白人種による此の500年の近代といふ時代が生み出したグローバリズムの終焉を最後に人類に示すことなのだな。

この事は、今ヨーロッパで起きてゐる移民・難民問題が500年かけて巡り巡って地球を一周して自分自身に戻つ来てゐる(お釈迦様なら因果応報といふだらう)現実と密接に深い関係があるな。

地球のユーラシア大陸の東と西で同じ事件が起きてゐるといふ事になります。

かうして考へて見ると、イギリスがヨーロッパではないやうに(ヨーロッパ大陸又は大陸ヨーロッパに帰属しないといふ意味ですし、これが歴史的・伝統的・地政学的にイギリスがEUから離脱した一番の理由だと私は考へる)、実は、日本もアジアではないのです。

脱亜論なども近頃では論ぜられてをりますが、そもそも脱する必要はなく、既に、最初から、そもそも、日本は日本であつたし、ある、といふ事が判ります。

この考へから/で、我が国を論じては、みなさん、如何か。


それでは、何をどうやつて論じるのか。即ち、大陸をではなく、海洋を主体にものを考へるといふ事です。即ち、海と島で地球を眺めるといふ事です。大陸の人間が、海洋と島の歴史と伝統を学ぶといふ事です。その中に、縄文時代も弥生時代もあるだらうといふ事です。全く従来とは異質な世界が眼前に開かれるのではないでせうか。

日本は、もともと再帰的な(recursive)な国だつた、日本人はそもそも再帰的な民族だった、日本人はそもそも再帰的に思考する人間だった、即ち八百万の、白人種のキリスト教の言葉でいへば、多神教の国であつたといふことです。外に敢へて、規範を求める必要の、そもそも無い国であるといふことです。

このやうに考えると、結果として、鎖国するでもなく、尊王攘夷でもなく、無条件にむやみやたらに(今時のやうなだらしのない)開国するのでもなく、日本人の美意識に則つた古来からの第三の道を私たちは行く事ができるのでは無いか?


これは、方便ではありません。

2016年12月1日木曜日

再びIntelligenceが求められる21世紀の冷戦

再びIntelligenceが求められる21世紀の冷戦

西村さま、

昨日の貴君とのジョルジュ・バタイユ談義の続きです。

今朝の此の時間に二人のやり取りのジョルジュ・バタイユ談義にアクセスした数は、324でしたので、この数字はunique numberですから、このアクセス数は、結局324人といふことになります。

貴君の読者15万人の1%は1500人。325/150000x100=0。22%。

日本人で哲学を学ばうといふ人間の数は極めて少ないので、貴君の設定した1%は、良い数字です。私も社員教育をして、社内募集をして30人を超えて始まった月一度の哲学の教育機会に、1年が終わる最後の日に出席して残つた人数は、2人でしたから。この場合は、6%で、私は大成功だと思ひました。この二人のその後については知りませんが、しかし、さうではない人間たちと比べて、人生が大きく変はつたことでせう。勿論、それが哲学を学んだせいだとは決して気づかないわけですけれど。

考へてみれば、intelligenceとふ英語の此の言葉の意味は、最高機密に触れて、その意味、即ち暗号を、即ち目明か・目明きであるのにも関わらず、同時に、暗い符号・記号・画号といふ(普通の人間の目には明らかではない)目暗らの情報(この情報はinformation)を解読する能力を有する者といふ意味なのだなと、さつき別のことを考へてゐて思ひました。

つまり、intelligenceとは暗号解読能力のことなのですね。だつて、これは私たち人類の持つてゐる能力そのものですよ。『ダヴィンチ・コード』のラングドン教授みたいに、私が安部公房や三島由紀夫や村上春樹の暗号を解読したみたいに。(別に自慢していつてゐるのではありません。)

と、してみると、日本の教育は愚民教育だな。

更に低学年から英語を入れるとは、何たる阿呆どもか、今の政治家と行政府の役人どもは。Intelligence、即ち暗号解読能力は、自国の古典(これが暗号そのもの!)を読む能力を養わずに、個人のintelligenceも国家の(組織的な)intelligenceも育つわけがないではないか。勿論、その教育も含めて。

旧帝国大学の、文字の通りに最高学府東京大学といふ此の末裔の大学の試験に、このcodeをdecodingせよといふ設問一つにして、別にわざわざ会場に来なくても良いから、自宅で何日以内に解読して何月何日何時必着として、メールにpass wordを掛けて(これも暗号化!)、資料は何を選んでも(但し根拠として典拠は明示すること)図書館にいつて調べても良い、むしろこの調査・探究といふ未知のものへの探査能力を見るのが眼目といふことにするわけです。土星へ向かつたボイジャーみたいに。

日本語ができないで暗号解読能力、即ちintelligenceが欠落して、言語を「駆使する」ことなど不可能、大人になつてから仕事ができるわけがねえだらうと、まあ、西村殿、言いたくなるのです。

でも、0。2%、この数字は凄い数字ですよ。何故なら、どの領域の統計も見ても此のパーセントは有意義ですから。

この人たちの年齢構成を知りたいけれど、多分今の日本の庶民の中に無名で隠れてゐるデカルトみたいな人たちだな、この人たちは、きつと。デカルトの座右の銘ふたつの内の一つは「よく隠れた者こそ、よく生きた者である」(bene vixit, bene qui latuit)といふのです。この0。2%で、今の日本の国は密かに保(も)つてゐる。勿論有名になつて(貴君みたいに)表舞台で活躍してゐる人たちも含めてですけれど。つまり、心根(こころね)のことがいひたい。でも、表舞台にゐる人たちが、このintelligenceといふ能力を密かに(密かにだよ)持つてゐることを、目暗らの人たちは知らない。

といふことは、20世紀の後半に、インターネットの登場する前後から流行して(今もさうで)ある、俗にいふ高度情報社会の興隆期に言われたinformationといふ言葉は、情報処理能力が要求されてゐたからだといふことが判りますね。だつて既成・既存の(国家から要求される)能力は、既に与へられた情報(information)の範囲で既知のことを処理する能力(intelligence)だつたといふことだから。だから、informationがintelligenceの優位に立つて、世界中に流布したのですね。

その情報は、コンピューターが計算して提供してくれる。しかし電子計算機にintelligenceは、ない。つまり計算処理能力だけの話の中での電子計算機だつた。だから、単位時間あたりの量的処理能力だけを人間は問題にしてコンピューターを設計開発して来た。

しかし、やつと、時代がまた元に戻つた。つまり冷戦時代の物語の主人公007のやうなintelligence(諜報)の物語を位相を変えて変形し、次元を一つ上げた物語が大当たりになる時代が来たといふことです。即ち、暗号を解読する物語の時代だといふことです。

といふ風に考へてくると、今人間に求められてゐる能力がとてもよく判りますね。国際政治も、国内政治も、国内外の経済のことでも、AIの飛躍的進展の理由も、といふよりも、AI(といふ此の外在化した私たちの脳)の自律的飛躍・飛翔から観える近未来の世界像のこと等々も。

情報時代、information時代の終わり、そして知識・諜報時代、暗号解読時代 、intelligence時代の始まり(もう既に始まつてゐる)。知識とは、体系化されたものですから勿論贅語ですが、しかし、体系的知識といふ意味です。後者は私の上の言葉でいへば、探査時代の始まり、調査・諜報時代の始まり、暗号解読時代の始まり。といふことは、何だ、何といふことはない、

再(ま)た、冷戦時代に戻つた

といふことになるではないか。

今度の冷戦は一つ上の次元の冷戦ですね。新冷戦時代。今度は、どこの国とどこの国のCold Warであるのか?

としてみれば、日本がCool Japanと白人種に呼ばれてゐて世界に広まつた、それも汎神論的キャラクターや映画や(日本語の小説に汎神論的な小説はありやなしや?あるとすれば、絶滅危惧種「純文学」ではなく)SFといふ日本民族産の文物が、紅毛人にとつてcoolだとといふことですね。最近の映画『シン・ゴジラ』も『君の名は。』も然り。前者は老若男女が、後者は若者たちが熱心なのは、やはり「ヤマト」民族の暗号を解きたいといふこと(松本零士の「宇宙戦艦ヤマト」も此の一環であり此の 先蹤せんしょう))、古典を神話を読みたいといふことを示してゐます。今の教育は、この社会的な欲求から言つても、阿呆教育、愚民教育です。一体私たちは誰のために生きてゐるだ?日本国民はキリスト教徒ではない。

この文脈の中にある私たちにとつて、日本がcoolであるとは、八百万の神と一緒に毎日暮らしてゐるといふこと、当たり前のことです。英語のcoolといふことから、もつと厳しい冷たさであり寒さであるcoldといふ英語があることを考へてみる、

と、このやうに考へて来ると、Cold Warとは、国家間の対立も含み、21世紀の今は、人間間の対立をいふことも十分に意味してゐるのではないだらうか。つまり、Globalism対Nationalismも、その一環の地球的な動きなのではないだらうか、と、まあ、ここから先は貴君の領分なので、お任せします。

Globalistは、information(情報)を処理して(今大流行中の政治・経済の、「増すゴミ」(由緒正しき名前は"mass communication")メディアによるデマゴーグもこれに入る)世界を支配したいといふ輩、ただただ資本主義の原理に倣つて金を儲けるために、金儲けが自己目的と化した輩。対してnationalistは、intelligenceを駆使して、近代の、白人種以外の地球上のすべての民族にとつての相変わらずの不変のテーマ、即ち民族の真の独立を図りたいと願ふ当然の人間たち。

といふことからいつても、やはり日本語の教育に力を注ぐべきは、古典教育、即ちまづ日本の神話を読ませること、古事記、万葉集、伊勢物語、大和物語、源氏物語、それから漢文と素読。即ち大政奉還から此の150年に及ばうとする(たつた150年!)日本の近代国家を可能ならしめた江戸時代の日本人の教育に戻ることといふことになるではないか。この江戸時代の日本人の深い教養の蓄積の上に、今の日本の国がある。(松尾芭蕉の俳諧は此の教養の上にあつて素晴らしい。)これを貴君に、今執筆を予定してゐる著作の中で是非論じてもらひたい。

先の敗戦後の阿呆政治家、阿呆官僚どもが此の教育を放擲して来たから(しかし、これはまた阿呆日本人どもの罪である。何故なら「戦後」民主主義の国であるから。以後「敗戦後」民主主義と呼ぶがいい)、若者たちは、古くはウルトラマンや仮面ライダーに、新しくはガンダムやエヴァンゲリオンに、これら英雄の物語に惹かれてゐる。おまけに、同じ原因でオウム真理教といふカルトまで出て来て国家転覆を図ることに至つた。テロリズムを、知らず知らずのうちに、日本の内国教育が産み育ててゐる。阿呆国家ニッポンである。と、段々語調が激しくなつて来たので、ここいらで止めます。

貴君に向かつて書くと、いろいろなことを、かうして考へて、新発見がいつも一杯あるなあ。ありがたう。

では、また、書きます。

その後のアクセス数の数字の推移はまた連絡します。今までの経験から見ますと、大体三日が目処ですね。0。3%に近づいたら大成功です。

本件ご返信ご無用。忙しき貴君なればなり。


岩田

追伸

日本の庶民が、「敗戦後」民主主義の時代に、(今や死語である)インテリなどと略称して呼んだのは、正解でしたね。これ庶民の知恵なり。何故なら、intelligenceが欠けてゐるから。次のinformationの定義がネットにあり。

「インテリまたはその原語であるインテリゲンチャ(ロシア語: интеллигенция、Intelligentsia、インテリゲーンツィヤ)とは、知識階級を指す言葉。なおそのような立場にある個人を知識人ともいう。対比語の多くは大衆(民衆)。」(vhttps://ja.wikipedia.org/wiki/インテリ)

この語源を読み解いても、その当人にintelligenceのあることの証明にはならないことを註記します。



2016年11月29日火曜日

西村幸祐氏との往復書簡1:ジョルジュ・バタイユについて

西村幸祐氏との往復書簡1:ジョルジュ・バタイユについて

岩田様

どうもありがとう。

村上論も拝読します。村上春樹に関しては、僕は『幻の黄金時代』で半分肯定・半分否定で取り上げた。「1973年のピンボール」は読んでいないので、いつか読んでみる。

ツイッターにバタイユの言葉をUPするアカウントがあって、こんなことを言っているので、

「私達は歴史の中でしか存在[=生成としての動き]を捉えることができない。つまり、変化の中で、ある状態から他の状態への移行の中でしか捉えられないのであって、別個に次々に眺められた状態の中では無理なのだ。-エロティシズ-」

僕はこんなコメントを残しました。

「つまり実存はSein(ザイン・存在)とZeit(ツァイト・時間)の積だ。ハイデッガーに於ける〈現存在〉をバタイユはここで再定義したかったのだろう。しかも「時間」を〈歴史〉と言うことでバタイユの存在論はハイデッガーよりアナログになった。エロティシズムの本質はアナログなのかも知れない」

****

西村様、

バタイユや貴君のコメントをありがたう。

1。キリスト教と哲学
この年齢になって、やっとヨーロッパのキリスト教といふ一神教、唯一絶対のGodしか存在しないといふ論理から白人種が逃れるために生んだのが哲学といふ学問であり、言語科学であること、その上に物理学その他のいはゆる科学が生まれたことを明解単純に知るに到りました。

2。バロックの時代
それが、パスカル、デカルト、モンテーニュ、ライプニッツ、ニユートン等々のヨーロッパの17世紀の哲学者や数学者を兼ねる人間たちです。

このバロックの眼で見ますと、このバタイユ専門のtwitterにあるジョルジュ・バタイユの次の言葉:

「ジョルジュ・バタイユ ‏@G_Bataille_jp 2時間 2時間前
[超キリスト教的な]世界観に従えば、神から離れ、落ち来たるものは、もはや人間ではない。神自身(或いは全体性と言っても良い)だ。この見方において神は、神概念と同程度のものを内包している。いやむしろより多くを内包している。ただしこの「より多く」は神そのものである故に自分を無化する。」

といふ言葉は、やはりキリスト教の範囲を出ない。この思考論理では、最初から限界があります。しかしどこを志向してゐるかは、白人種の論理としてよくわかります。

Godといふ絶対的な存在が、自分自身に再帰(recursive)すべきだとバタイユは言ってゐるのです。この志は正しい。しかし、内包してゐると言ってしまふと、元の黙阿弥になってしまふ。

キリスト教のGodは、唯一絶対のGodですから、バタイユの論理になってしまふ。バタイユの思ひはさうではないのに、その論理の外に出たいと願ってゐるのに、です。

ここにキリスト教徒の(神学から来た)思考論理上の限界があります。上にあげた17世紀のバロックの哲学者たちは、これに対して汎神論的存在論です。(これはこのまま安部公房の世界なのですが、委細後日。)

ヨーロッパ人は、今こそ自分たちのバロック時代を想起すべきです。去年ドイツからバロック様式の建築の本を取り寄せて読み、最後のあとがきを見て愕然としましたが、このドイツ人のprofessorは、バロックといふ概念はあまりに多岐にわたり、定義することができないと、そのあとがきの冒頭に書いてゐるのです。今のヨーロッパ人は、バロックといふ概念を忘れてゐるのです、定義もできないといふひどい状態にある。勿論、この本の内容は良いものでした、しかし、それなのに、目の前に日常にバロック様式の建築物があるのにもかかはらず、さうだといふ現状は余りにひどいと思ひました。

大体キリスト教徒たる白人種の哲学者たちが、古代ギリシャのソクラテスを祖と仰ぐといふことが自己撞着です。何故ならば、古代ギリシャは多神教の世界だから。

今こそ白人種のヨーロッパ文明は、あの17世紀のバロック時代の精神を思ひ出すべきときなのです。さうすると世界中の多神教の諸民族(これが地球上の宗教の大多数だらう)とやっと話ができるやうになる。

キリスト教の正統派は、アリストテレスの論理学を、異端とされる人たちは、プラトンの哲学を選択したことも、やはり意義深いものがあります。後者はイデア論ですから、汎神論的存在論、前者はGodを主語に立てたら、この主語は唯一絶対で、あとは全て述語部に収まるといふ唯一絶対神の考へかたです。

後者は、主語と述語の関係は絶対的に固定して決して動かない。つまり言語論理の、思考論理の最初から持ってゐる再帰性(recursiveness)、即ち自己に回帰するといふ論理を禁じてゐるのです。これが言語からみた(安部公房の世界から見た)キリスト教の思考の限界です。それで、この500年を自分たちで大航海時代と呼びながら、私の言葉でいへば大虐殺時代の500年になったのは、この人類のそもそも持ってゐる本来の普遍的な思考論理を絶対的に、唯一神の名のもとに否定して来たからです。

長くなるといけないので一言でいへば、17世紀の哲学者は、唯一絶対のGodの存在を疑ったのですね。でもそれらの著作の表紙には、唯一絶対の神の存在証明のためになどと書かざるを得なかったのです。さうしなければ、ローマ法王庁に召喚されて、異端審問の裁判にかけられて、ガリレオのやうな目にあったのでせうから。

バロックの時代は、動乱の30年戦争のあったドイツの混乱を中心に、無秩序のヨーロッパでしたから、誰も彼もが、日本語でいふならば、神も仏もあるものか、とさう思ったのです。

バロックの時代とは何か、バロックの精神とは何かとひとことを卑俗な日本語で云へば、神も仏もあるものか、なのです。デカルトの精神、cogito ergo sumを、そんな風に言い換へることができます。

これはまた次回お会ひした時に詳細を。

3。貴君の引用してくれたバタイユの言葉へのコメント
バタイユ曰く:

「私達は歴史の中でしか存在[=生成としての動き]を捉えることができない。つまり、変化の中で、ある状態から他の状態への移行の中でしか捉えられないのであって、別個に次々に眺められた状態の中では無理なのだ。-エロティシズム-」

生成とは時間の中にあるものですから、あるいは時間によって生まれるものですから、バタイユのいふやうにいふことができますね。つまり、

「私達は歴史の中でしか存在[=生成としての動き]を捉えることができない。」

といふことです。しかし、そのやうな変化を捨象して、空間的に存在を考へることもできるのです。(これが安部公房の世界です。)

これが、このtweetに対する貴君のコメントですね。よくわかります、即ち、

「つまり実存はSein(ザイン・存在)とZeit(ツァイト・時間)の積だ。」

とどうしても言いたくなりますし、これが現実に生きることだと、つまり、積算といふ時間の存在しない空間(これは安部公房)と時間(これは三島由紀夫)を創造する計算のことをいふことになるのです。安部公房の言ひかたをすれば、このやうな積算値としての自己とは何かと云へば、それは、

存在(Sein)としてある自己のままに、即ち時間の中(変化の中)にある、更に即ち社会の交換関係の中にあって(社会とは時間の中では交換関係を人間に要求しますが)、いかなる役割も演ずることなく(役割を演ずるとは個人の分化ですから)、そのやうな交換関係のないままに生きること、これが実存であり、無償の人生であり、この人間のあり方を実存(これを安部公房は「未分化の実存」と呼んでゐます)といふのだ。

といふことになります。即ち、

存在(Sein)のままに時間(Zeit)の中で生きること

ですね。

貴君のいふ通りだと、私も思ひます。

「ハイデッガーに於ける〈現存在〉をバタイユはここで再定義したかったのだろう。」とあるのは、その通りです。

「しかも「時間」を〈歴史〉と言うことでバタイユの存在論はハイデッガーよりアナログになった。」とあるのは、これも、さうだと思ひます。

「エロティシズムの本質はアナログなのかも知れない」、ええ、エロティシズムの半面は、その通りです。そして、他方の半面は、「エロティシズムの本質はデジタルなのかも知れない」といふ真実です。前者は三島由紀夫の世界、従ひ西村幸祐は三島由紀夫の読者であり、他方、後者は安部公房の世界であり、かくいふ岩田英哉は安部公房の読者といふわけです。

僕の結論: 世界は差異である。

世界は差異でできている。これがバロックの哲学者や数学者たちの、神も仏も無い時代の、世界認識です。数学者としてのニュートンとライプニッツは微分と積分を創始しましたね。これらも差異に関する数学です。

考へてみれば、時間も空間も差異にほかなりません、勿論言葉の意味もまた差異なのです。これらのことは、あった時に話したい。

さて、といふ訳で、前者、即ち三島由紀夫の差異は、時間(時間は時差です)となって現れ、後者、即ち安部公房の差異は、空間(空間も差異、即ち隙間です)となって現れる。ともに、神聖なる差異であります。

前者の差異は河となって、三島由紀夫の愛唱したヘルダーリンの詩『追想』にあるやうに「豊饒の海」、即ち存在の中に流れ入り、若者は一人存在の海の、その永遠の航海へと出帆し、対して後者の差異は、安部公房が愛唱したリルケの詩にあるやうに、隙間となって神聖なる世界を荘厳する差異、即ち存在が其処に生まれる。

話は尽きません。

西村幸祐の健筆を祈る

岩田


2016年10月12日水曜日

映画『君の名は。』を読む

映画『君の名は。』を読む

今映画館より戻って、恰も未だ彗星の落下して余燼さめやらぬ糸守という時間の無い神話の土地にゐて、この文章を書いてゐるやうな気持ちがする。

もう一つの映画『シン・ゴジラ』と何か私たち日本人の意識の下で同期してゐる他方の映画が、『君の名は。』であると、最後まで映画を観て思つた。

最後まで見るとよくわかりますが、この映画は、丁度『シン・ゴジラ』が 、現在から見て未来の時間、即ち2027年完成予定の現時点で存在しないビルを丸の内のを現在の時間の中に置いてシン・ゴジラに破壊をさせてゐるのと同様に、2021年の東京と、その8年前(といえば、映画発表の時間よりも前に起きた)衛星の糸守町落下による500名死亡の時間とを現在の時間に於いて交換して、その世界を今創造してゐるのです。
映画シン・ゴジラを読むhttps://word-eyes.blogspot.jp/2016/09/blog-post.html

つまり、二つの映画は共に、過去と未来の時間を、現在に於いて交換することによって、無時間の空間を創造して、そこでそれぞれの主人公の物語が紡がれてゐるのです。

従い、そこに立つシン・ゴジラは彫像のやうに時間の外に立って不動であり、『君の名は。』の二人の永遠にお互いを求め続けてゐる若い一組の男女もまた、同じ現在の東京に於いて、しかし無時間の神話の世界の中で、あの坂道の階段を歩いて一度すれ違いながら、若者はその上で、乙女はその下の方で互いに振り返ってお互いに遂に永遠に不動のままに出会うことができたのです。

私は映画『シン・ゴジラ』を読む」で、映画『シン・ゴジラ』と『君の名は。』の共通性と題して、次のように書きました。

role reversal(役割交換)といふ視点から見れば、この二つの映画は同じ主題を扱ってゐます。

それが、role reversal(役割交換)であり、ともに私たち人類の、多神教の世界に棲む古代ギリシャ人はこれをlogos(ロゴス)といひましたが、その深い転生輪廻の意識に関わる論理から生まれた作品だといふ事です。ヒンズー教も仏教の思想もそれから生まれ、釈迦も此の論をなした。私たちは、21世紀の今Cool Japanの一部として此ををなしてゐる。

二つ目の共通する主題は、映画の多義的な解釈をゆるす此のrole reversal(役割交換)です。【註1】

実際に『君の名は。』では、滝くんと相手の乙女に呼ばれる若者と、三葉と滝くんに呼ばれる乙女が、役割を交換して、それぞれの体の中への転移をします。それも彗星衝突による大爆発の始めと終わりの間の時間に於いてのみであるのですが、しかし岩倉といふ乙女の家の神社の御本尊の岩倉の力を借りて、そうして此の岩倉の大石の存在する神聖な場所は、周囲を水または川で囲まれた死の領域にあるわけですが、その神聖なる岩倉の力を借りて、また此の御本尊の岩の中に三葉が奉納した口噛み酒を自分の意志で三葉にどうしても会うために一献飲んだことによって、謂わば神威によって、二人は再び出会うことができて、8年前の彗星衝突の大事故の時間と2012年の未来の時間が其の神聖なる場所で交換されて、他方、観客が現在映画を観る現在の時間の中で其の2012年という未来の時間を現在の時間のこととして虚構の真実の中に見る、そのような現在の二人の再会を目の当たりに、映画の最後に観客は、することになります。

物語の此の神話的構造化の素晴らしさは、この出会いが一回限りなのではなく、無時間の神話的な世界での出会いでありますから、永劫に回帰を、転生輪廻を繰り返す、そのような出会いであり得ているということです。最後の坂の階段上での垂直方向での二人の出会いは、そのことを示しております。

交換は時間ばかりではありません。以下、私の気づいた交換を列挙して見ませう。

1。都会と田舎
2。男と女
3。現実と夢
4。記憶と忘却
5。覚醒と睡眠


これらは互いの差異の交換と言い換えることができます。交換とは、商業的な世界でも通俗的にさうであるように、余剰という富を生み出します。

物語の此の富を生み出し、差異を一つに纏めるのが、乙女の祖母の語る神様の話で、即ち結びと換称で呼ばれる神様です。この神様は、乙女の祖母に寄れば、時間を逆流させ、曲げ、捻り、二つの時間を結ぶことができます。

この神様の御神体が、宮水神社の御本尊である岩倉です。その場所は水または川を渡ったあの世であり、こちらはこの世です。

そうして、二人は、これもやはり古語で言われる夕方、即ち彼は誰時(カワタレドキ)に出会うのです。彼は誰時(カワタレドキ)とは、昼と夜の間、その差異に存在する時差であり、時間の隙間です。

そうすれば、上の交換の表に、更に、

6。昼と夜

を付け加えることができませうし、更に、この差異の、隙間の時間は、二人が生死を共有する時間でもありますから、

7。生と死

を加え、更に、

8。この世とあの世

を、御本尊の岩倉の場所を思い出して、追記することができませう。と、してみれば、更に、

9。現代感覚と古代感覚
10。科学と古代
11。彗星と地球
12。天変地異と、終末にはならない世界

といった交換の名前を挙げることができませう。

日常的な時間のある世界の中での此の交換が生まれる契機として、この映画の作家は、敷居の上を扉や障子や電車のドアを何度も事ある毎に滑らせて、交換の下地とし、その予告としてをります。この敷居の登場する回数を数えると、あなたは映画全体を章節に分けて、映画の成り立ちと仕組みを知ることができるでせう。

また、三葉が東京に滝くんといふ男子を探してに来て、東京の電車の中で其の男子を探して見つけて側に寄って立つ四ツ谷駅に至る前に、その駅の手前のトンネルを電車が抜けてから、そうなることにやはり深い意味があると思われます。トンネルは、二つの別の世界を接続する働きをするからです。

さて、こうしてみますと、最後にもう一つ交換の名前を挙げることができます。それは、

13。時間と空間

です。

最後の最後に物語は進んで、次の交換がなされることになります。

14。「お前は誰だ?」と「君の名は。」

上の14の前者の問いは、映画の冒頭に、男女の魂の交換が起きてから(本当は交感と書いても良い位ですが)、極く最初のところに若者が乙女のノートに書き、後者は前者に同じ書き付をしてお返しをするわけですが、この「お前は誰だ?」といふ問いに対する答えは、最後に「君の名は。」と、坂の上下で二人が無言のうちに、沈黙のうちに答えるところで、映画と共に、終わっています。

これが「君の名は。」とあって、「君の名は?」ではなく、「。」でperiodが打たれてゐるのは、既にして無時間の中の神話的な世界で答えが明らかだからであり、疑問文なのではもはやなく、既にして確定した、疑問の余地のない肯定形の平叙文であるからです。

この結末の坂の階段での二人の男女の出会いの情景は、1953年 制作された松竹映画「君の名は」で、1945年5月東京大空襲の夜、焼夷弾が降り注ぐ中、たまたま出会って共に戦火の中を逃げ惑って知り合った氏家真知子と後宮春樹 の物語、即ち敗戦後の日本人が共有した物語が終わりを告げ、お互いの名を問ふことの要なく、行き違うことの要なく、上述の世界に「既にして」出会ってゐた二人であるが故に、「君の名は」ではなく、「君の名は。」として、この70年の時間もまた終焉を迎えたのだといふ、私たち日本人の明瞭な意識を日常感覚のままに示しています。そうでなければ、短日時の膨大な量の観客が脚を映画館に運ぶことはなかったでありませう。

映画の観客は若い男女多いという記事を見ますと、この二人の生み出す余剰の、富の、豊饒の物語に、若者たちが古代感覚と神事の感覚、また祭祀の感覚を感じ、これが蘇生した、いや此の感覚は眠っていただけでありませうから、覚醒したのだといふことを、私は感ぜずにはゐゐられません。

この神様を結びと呼び、またあの2011年3月11日の大地震・大津波以来、私たちの共有してきた絆(きづな)といふ言葉に此の神様の名前が通じてゐる以上、この神はまた、三葉の祖母のいふ通りに、70年の時間を逆流させ、曲げ、捻ることが楽々とできる神様のです。いや、このことを既にして自覚してゐる私たち日本人もまた同じ力を有してゐるといふ事なのです。

勿論、結びの神とは縁結びの神でもありますから、観劇した若い男女を結びつけることになる、ひょっとしたら此の映画は縁結びの神さまといふ事で、密かに若者に人気を博してゐるのかも知れないと思ふほどです。

最後に歌われる主題歌が、退出する観客へ、時の隠れんぼはもう終わった、時のはぐれっ子を演ずることはもう終わりだと、そう告げてゐます。もうそんなことは嫌だ、と。

『シン・ゴジラ』であるならば、海の底に沈んでゐた海神(わたつみ)が、第4形態となっって東京に上陸することを意味してゐることでせう。

これら二つの日本映画が海外でどのような世評を得るか、誠に興味深いものがあります。

【註1】
Role reversal(役割交感)とは文化人類学用語でもあり、このような役割の交換を、人類学の用語で、communitas(コムニタス)と呼びます。これは、人類学者の観察によれば、社会が流動化して、大きな変化を経験しているときに生まれる儀礼である(これも儀礼になりえる)と説明されています。Hatena Keywordから引用します(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%E0%A5%CB%A5%BF%A5%B9):

「【communitas】スコットランドの文化人類学者ターナー(Victor Turner, 1920-83)が提唱した概念。
通過儀礼(イニシエーション)の中での人間関係のあり方を意味する。
身分、地位、財産、男女の性別や階級組織の次元など、構造ないし社会構造の次元を超えた、あるいは棄てた反構造の次元における自由で平等な実存的人間の相互関係の在り方と定義されている。」

【註2】
本論の姉妹編映画『シン・ゴジラ』を読む」より、君の名は。が『シン・ゴジラ』と共有する(西洋の哲学用語でいう)超越論、即ち汎神論的存在論について述べた箇所を、少ない記述ではありますが、引用します:

間違ひなく、この監督の至つた此の思考形態、即ちヨーロッパ人が哲学の領域でいふ超越論(独: Transzendentalphilosophie, 英: transcendental philosophy)が、これからの日本人に深い影響を及ぼすでせう、いや既に、観客動員数としてみれば明らかなやうに、及ぼしてゐるわけです。

【註3】
もし文明論的に、文明史論的に、これら二つの映画を並べて纏めると、一神教であるキリスト教から生まれた近代といふ時間の資本主義や民主主義という白人種の生み出した制度を、多神教の、八百万の神々の世界に生きる日本人が、その映画史上の発生史の二つの類型(タイプ)の映画、即ち演劇的な映画とアニメーション映画の二つを同時に製作して、共にそれらを(西洋哲学の言葉で言えば)汎神論的存在論として製作し、一神教の文明と文化を超えた世界を、また従い古代的な多神教の感覚と論理を、つまり終末をではなく、永劫回帰と転生輪廻を、永遠の繰り返しの世界を、その民族の歴史と伝統を真っ直ぐに受け継いで素直に、そのまま映像化した、そのような二つの映画を、日本の映画界は同時に製作したということになります。

とすれば、最後の最後に、次の差異を。

15。一神教と多神教

いや、もう一つ。

16。「君の名は」と「君の名は。」

      1945年の「君の名は」
2016年の「君の名は。」





2016年10月11日火曜日

たじり しげみ著「しあわせの『コツ』」を読む

たじり しげみ著「しあわせの『コツ』」を読む




同著を作者よりご恵送戴きましたので、お礼というにはささやかでありますが、私の感想を此処に掲示して、その素晴らしさがどこにあるのかを、これから本を手に取る読者に、そしてその読者が年少の読者であればあるほどに尚、お伝えしたいと思いましたので、筆を執った次第です。

私はこの本を一読して、次の二人の人間を思い出しました。

一人は、勿論安部公房であり、もう一人はルネ・デカルトです。

何故ならば、この本は一体何かと言えば、これは誰でもの人のための人生の模型と其の設計図を提示しているからなのです。

安部公房の例を挙げましょう。安部公房は、1944年11月21日に『〈没落の書〉』と題する、これから自分の生きる20世紀を前世紀からの歴史の継承と其の超克といふ観点から如何に生きるべきかを、二十歳の青年として、次のように書いております。

「私は唯一の解決者たる宿命を拒みはしない。私は自分が他愛の義務を、自分の詩魂の内に感ずる事を人々の為に祝福する。私は総てを展開しよう。だが常に注意し給え。解決は言葉の最後にのみ与えられるものではない。君達は画き出す人でなければならぬ。私は単に暗示者だ。絵具と構図は君達にまかせる。私はモデルを象徴しよう。」(安部公房全集第1巻、141ページ、上段。下線部は評者による。)

安部公房のすべての作品はいづれも、ジャンルを問わず、この精神に基づいて書かれております。

安部公房はモデルを提示し、私たち読者は実に自由に自分の読み方をして、構図を描き、好きな色の絵の具を使って、誰にも書くことのできない一回限りの、自分の人生の絵を描く。これが、安部公房の読者の、謂わば、特権と言って良い有り難さです。他の作家には、このような意志と意図はないように思います。

もう一人は、17世紀のフランスのバロックの哲学者、歴史に名の高いデカルトです。

『方法序説』に次の言葉があります。

「私の計画は、私自身の考えを改革しようとつとめ、まったく私だけのものである土地の上に家を建てようとすること以上におよんだことはけっしてない。私のやったことが私には十分満足すべきものであって、ここにその模型を読者に示すとしても、だからといってそれに倣うことを人にすすめようとするつもりなのではない。神の恩寵をさらに豊かにめぐまれた人ならば、たぶんもっと高い計画をいだくことであろう。」(中央公論社「世界の名著22 デカルト」174ページ。下線部は評者による。)

このように模型を示してくれる大人を発見すること、これが子供の理想の、自分の人生の設計図を書くために必要なことなのであり、そのような模型の設計者としての大人なのであり、また同時に自分自身がそのような模型と設計図を提示できる大人となることが、子供にとっては、自分自身の人間としての、楽なだけではない人生を生きるための、理想の姿なのではないでしょうか。

そのための本が、この「しあわせの『コツ』」だと、私は思います。

この本の中の言葉は、「あとがき」によれば「当時専業主婦だった私」が「文字通り起きてから寝るまで家事と育児に明け暮れていて」「ある日のこと、食卓を片付けていたら」その最初の一行が「突然頭に浮かんできた」とのことです。そうして、20分で食卓の上で「忘れないように私は急いでそばにあった新聞の折込チラシの裏側に書き留め」た、これは詩です。

最初の題名は、『しあわせの『コツ』第一章』であったとのことです。

安部公房は、上の引用した同じ二十歳の年に書いたもう一つの重要な論文『詩と詩人(意識と無意識)』に同じ思想を次のように書いております。

「解釈学的体験、― 次の数行の余白はその無言の言葉で埋められるのだ。(私は君達の自己体験をねがう為に此の余白を用意したのだ)
   ………………………………………………       
     ………………………………………………
           …………………………………………         」
(同全集第1巻、112ページ、下段)

そうしてこの5ページ後に、単に第二章第二節に「二」とだけ次節の数字の文字を書き付けて、さあ、あとは君たちが自分の言葉で、自分の人生をどう生きるつもりなのか、この先を書いてくれと、そうその思いを伝えております。

もし贅沢な苦情を此の素晴らしい全33ページの本に申し立てることを著者がゆるしてくれるならば、「あとがき」にお書きになっているように、そうしてそうなさったかも知れないように、第一章を題名に残して、そうして第二章という章を立てて、二十歳の安部公房がそうしたように、そのページの本文を余白として、幼い読者に示して下さるとありがたいかもしれないと思いました。

その読者は、その余白の白を一生忘れないことでしょうから。そうであれば、何度でも自分に固有の人生をやり直すことができると既にして、無意識に確信していることでしょうから。

最後に、著者が読者に提示している16行の文からなる模型と設計図の最初の二つの行は、次のように簡潔明瞭なものです。

「きみが だれかのために 尽くすとき」
「きみの ちからは 千倍になる」

このあとの14行は、書店で手にとってお読みになって下さい。きっと著者もまた、その事を願っているのではないでしょうか。