2014年10月28日火曜日

梨という名前の天国への階段、天国への階段という名前の梨


梨という名前の天国への階段、天国への階段という名前の梨



この写真も、飽かず眺めて、なほ飽きない写真です。

何故そうなのかを考えると、それは、そのものがそのものではないということを示しているからなのです。

20歳になるかならないか、多分19歳のときに『金剛般若心経』を読んで、大変気に入った論理があります。今その当時読んだ中央公論社の世界の名著の『大乗仏典』から引くと、次のような一節です。

「スプーティよ、もしある菩薩が『自分は(仏陀の)国土の光輝(国土荘厳)を完成しよう』と言うならば、彼は虚偽(いつわり)を語るものである。なぜかというと、スプーティよ、国土の光輝、国土の光輝というのは、それは光輝ではないのだと、如来は説かれるからである。だから、国土の光輝というのである。」

この論理は、西洋哲学の論理で置き換えると、ある概念は、ある概念ではない、何故ならば、それは別の概念との関係では、その概念ではないからであるという意味である。至極真っ当なことを、『金剛般若心経』の中で仏陀は説くのだ。

犬は犬ではない、何故ならば、別の概念との関係では、それは犬ではないからである。それゆえに犬と呼ばれるのだ。

梨は梨ではない、何故ならば、それは別の概念、即ち階段との関係では、それは梨ではないからである。それゆえに、梨と呼ばれるのだ。

これが、古今東西を問わぬ、言語と思考論理による変形の論理です。

この同じ論理は、言葉を変え、語彙を変えて、全く同じに『維摩経』にも説かれていて、わたしは、このお経も今に至るまで大切に思っています。例えば、

「大徳よ、わたしは何も知ったのではなく、悟ったのでもありません。ですから、このような弁才がわたしにはあるのです。自分で何かを知り悟ったと思う者は、この善説の法と律において慢心があるのです。」

この言葉は、人間の心得とし説かれているが、根底にある論理は、全く同じです。或いは、同じ論理の上に言われた道徳です。

わたしは、このような論理が好きなのです。それゆえに、また、このような絵や写真に惹かれるのでしょう。そして、ヨーロッパの白人種の見つけたシュールレアリスム(20世紀)やバロック様式(17世紀)にも。






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